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困難を乗り越え打点王へ!小谷野栄一選手

2017 5/17 09:55cut
baseball ball
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松坂大輔選手とチームメートだったリトルシニア時代

小谷野栄一選手は江戸川南リトルシニアで野球を行っており松坂大輔選手(ソフトバンク)とチームメートだった。中学卒業後、松坂選手は神奈川県の横浜高校へ、小谷野選手は西東京の強豪創価高校へと進学する。

小谷野選手は創価高校で3年春の甲子園に出場し初戦でPL学園高校と対戦する。この試合で創価高校はPL学園相手に7安打を放つが、エースの上重聡選手から1点も奪うことができずに0-9と完封負け。小谷野選手は3番二塁で出場するが快音は聞こえなかった。PL学園は準決勝で松坂選手率いる横浜高校に2-3で惜敗。小谷野選手の仇を松坂選手が討った形となった。

小谷野選手は3年夏の甲子園に出場することは叶わず、甲子園でプレーしたのはPL学園戦の1試合のみだ。松坂選手が春夏連覇を果たし、ドラフト1位でプロ入りを果たすのを見ながら創価大学へと進学する。

当時の創価大学は東京新大学野球連盟の強豪でリーグ内で無類の強さを誇っていた。小谷野選手以前には中村隼人選手(日本ハム)、阿久根綱吉選手(日本ハム)らがプロ入りを果たしている。その強豪大学に小谷野選手は進んだのだ。

小谷野選手以降でも新人王に輝いた小川泰弘選手(ヤクルト)、2016年ドラフトの目玉だった田中正義選手(ソフトバンク)らを輩出している。

大活躍の創価大学時代

創価高校から創価大学に進学した小谷野選手は1年秋からレギュラーとして試合に出場。東京新大学野球連盟1部リーグの優勝に貢献する。1年秋から3年春までの4季連続で1部リーグ優勝を果たし3年春には全日本大学野球選手権大会で7年ぶりとなるベスト8進出を果たした。

3年秋のリーグ戦で2位となったものの4年時には春秋連覇を果たしている。4年間の通算打率.343、53打点と好成績を残しており、ドラフト候補として名前が取り上げられるようになった。

そして、2002年のドラフト会議で小谷野選手は日本ハムファイターズから5位で指名され入団に至るのだ。このドラフトでは小谷野選手の1巡前にクローザーとして活躍することになる武田久選手が指名されている。また、創価大学の先輩である中村選手もチームに在籍していた。

突如襲ったパニック障害

創価大学からドラフト5位で指名された小谷野選手は、ルーキーイヤーの2003年から一軍でチャンスを与えられた。4試合の出場ではあったものの初安打をマークしきっかけを掴んだ。

2004年(18試合)、2005年(48試合)と徐々に出場試合を増やした小谷野選手。2005年には初本塁打も放ち大卒3年目でブレイク直前まで飛躍したのだ。

しかし、ここで小谷野選手に悲劇が襲う。パニック障害を発症してしまうのだ。二軍戦で打席に向かおうとすると嘔吐してしまう症状が出てしまい練習にも参加できない状態が続いた。また、打席に向かおうとすると「死んでしまうかもしれない」と考えるようになり頭の中がパニックになっていたのだ。

当時、日本ハムの二軍コーチを務めていた福良淳一現オリックス監督は小谷野選手について「真面目だった。守備から戻ってきて自分の打席に向かうことができないようなこともあった。審判に話して少し待ってもらったこともある」と語っている。

また、小谷野選手に対して「何回だって吐いていい。調子が悪ければタイムを掛けてもいい」と励ましもした。チームメートも小谷野選手に気遣いを見せ徐々に自信を取り戻したのだ。

困難を乗り越え「北の打点王」へ

2006年にパニック障害で苦しみ一軍で僅か17試合の出場に終わった小谷野選手だが、2007年は一軍に定着し自己最多となる113試合に出場。完全に自信を取り戻した。

以降も2009年には3割まであと一歩となる打率.296をマーク。本塁打も初の二桁となる11本を放った。そして、守備では自身初のタイトルとなるゴールデングラブ賞を受賞。日本ハムのレギュラー三塁手からパ・リーグを代表する三塁手へと成長したのだ。

2010年には全144試合に出場。打率.311、16本塁打、109打点の成績を残し打点王を獲得。2年連続となるゴールデングラブ賞、そしてベストナインを受賞しチームの優勝に貢献した。

北海道日本ハムファイターズの打点王ということで「北の打点王」とも呼ばれるなどファンからも愛され、年俸も自身初の1億円を突破するなど最高の一年となったのだ。

この年は二軍時代、気にかけてもらっていた福良コーチがヘッドコーチ兼打撃コーチとして一軍にいたことも小谷野選手の成績に影響を与えたことだろう。福良コーチ(当時)は「小谷野は気にかけている」と語っており二軍時代のことを知っているからこそ、親身な指導を行ったといえるだろう。

オリックスでも恩師は変わらず

小谷野選手は2010年に打点王を獲得し、翌年も期待されたが統一球への変更が影響したのか2011年(打率.237)、2012年(打率.228)と打率が2割前半に落ち込む。しかし、打率は下がったものの小技をこなしリーグ最多となる40犠打をマークするなど打点王とは違う献身的な働きを行いチームに貢献する。

2013年には打率.275と持ち直しレギュラーとして日本ハムの三塁を守り続ける。しかし、2014年シーズン途中に故障を発症し戦列から離れると復帰後の出番は減り、シーズンを通して84試合の出場に留まる。2006年以来8年ぶりに100試合未満の出場となってしまった。

そしてオフには悩んだ末、FA権を行使する。日本ハム、オリックス、西武の3球団と小谷野選手は交渉。オリックスへの移籍が決まった。オリックスには日本ハム時代の恩師でもある福良監督が在籍しており、ヘッドコーチとしてチームを支えていた。

オリックスに移籍後のシーズンで小谷野選手は故障もあり、満足な成績を残すことができていない。2015年(56試合)、2016年(50試合)と出場試合数も少なく低迷している。持ち味だった守備は守備範囲に陰りが見えるものの派手さはないが、堅実なプレーを行っており安定している。

2016年から監督に就任した福良監督に恩返しをするためにも、2017年シーズン以降の活躍に期待がかかる。