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【球史に名を残した偉人達】『オレ流』采配・落合博満監督

2017 5/17 09:55cut
野球ボール、グローブ
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2003年オフに監督就任

中日・落合博満監督はロッテ、中日、巨人、日本ハムで20年間の現役生活を終えた後、評論家時代を経て2004年に誕生する。 現役時代から『オレ流』とされているほどの我流であった落合監督の采配には多くの野球ファン、野球関係者が興味を示した。
2003年オフに中日との3年契約が発表され、まず行ったことは戦闘服であるユニフォームデザインの変更。そして、多くの選手の背番号変更を行う。また、FAやトレードなどでの戦力アップを行わず現有戦力で日本一になると公言したのだ。 落合監督が就任する前年の2003年は山田久志監督のもとで中日は2位とAクラスではあった。しかし、セリーグ優勝を果たした阪神からは14.5ゲーム差を付けられており、補強は必須と見られていたにも関わらずだ。
2004年のシーズン前には「戦力10%底上げで優勝できる。開幕は川崎」と大胆発言。この発言には多くのファンは疑問を持った。特に開幕投手に指名した川崎憲次郎選手は2000年オフにFA宣言でヤクルトから移籍したものの、故障があり一軍登板は3年間で1試合もなかったのだ。 1年を戦う上で大切な開幕戦にもかかわらず3年間、登板のない川崎選手を先発投手に指名したことは今でも大きなトピックとして取り上げられることもあるほどだ。
このような『オレ流』で落合監督の1年目は幕を開けた。

オレ流炸裂の2004年シーズン前

大きな補強もなく就任1年目の春季キャンプを迎えた落合監督は初日から紅白戦を実施した。これは異例のことで、通常のキャンプであれば初日から紅白戦を行うことはせず徐々に身体を仕上げてから行っていく。
その異例ともいえる初日の紅白戦に向けて選手たちはオフシーズンの過ごし方を考えるようになる。また、試合ができる身体でキャンプに臨むことで「明日からシーズンが始まっても大丈夫」と当時、主力になりかけていた荒木雅博選手も語っていた。「仕上げが早かったことでキャンプ中に様々なことを試すことができた」とも後に語っている。
しかし、あまりにも早い仕上げだったため「こんなに早く仕上げては、1年間のシーズンを乗り切ることができない」といった批判も聞こえていた。しかし、『オレ流』の落合監督には関係ない。
補強なし、キャンプ初日に紅白戦という異例続きのオフシーズンを過ごし中日は開幕戦を迎えることになるのだ。開幕戦の先発は予告していたとおり中日移籍後初登板となる川崎選手だった。この開幕戦で川崎選手は1.2回を投げ5失点でノックアウト。しかし、打線が奮起し試合は中日が8-6で勝利する。この『開幕投手川崎』は8年間の監督生活の中で唯一、落合監督が先発投手を決めた試合でもあったのだ。その試合で見事に結果を出した。
この年、中日は予想を覆す快進撃を続け2位のヤクルトに7.5ゲーム差を付けリーグ優勝を果たした。「戦力10%底上げで優勝できる」と語っていた落合監督の言葉通りとなったのだ。日本シリーズでは西武に破れるが、監督としての手腕を大きく発揮した監督初年度だった。

日本シリーズでは成果が出なかった落合監督

2004年にセリーグ制覇を果たした中日は翌2005年に2位、2006年には再びリーグ優勝を成し遂げる。2006年の日本シリーズは日本ハムとの対戦だった。日本ハムのエースであるダルビッシュ有選手を初戦で打ち崩し勝利を収めたものの4連敗。日本一を逃してしまう。
2度の日本シリーズ敗退により「短期決戦に弱い」といった批判を受けたこともあった。しかし、それを覆したのが2007年の日本シリーズだ。
2007年、ペナントレースは2位ながらポストシーズンを勝ち抜き、日本シリーズに進出を果たす。相手は2006年と同じく日本ハムだった。前年と同じく日本ハム初戦の先発投手はダルビッシュ選手だった。この試合で中日はダルビッシュ選手に4安打に封じ込められ1-3で敗退していまいる。
しかし、前年と逆の展開となりこの後、中日は3連勝を飾り3勝1敗として運命の第5戦を迎える。

世紀に残る継投・2007年日本シリーズ第5戦

2007年の日本シリーズ第5戦は球史に残る1試合となっており落合監督、中日を語る上で重要な一戦だ。先発投手は中日が山井大介選手、日本ハムが中4日でエースのダルビッシュ選手となった。
先制点を挙げたのは中日だった。2回裏に平田良介選手が犠飛(ぎひ)を放ちダルビッシュ選手から1点を奪う。その後は両投手とも得点を許さずに緊迫した試合が続く。 5回を過ぎた辺りから球場がざわつき始める。山井選手が日本ハム打線を完全に抑え込み1人の走者も出していなかったのだ。プロ野球において日本シリーズでノーヒットノーラン、完全試合が達成されたことはない。
球場の期待は53年ぶりとなる中日の日本一以上に山井選手の完全試合に移っていた。8回裏の中日の攻撃が終わり、9回表日本ハムの最後の攻撃が始まる。
そこまで、山井選手は86球。先発投手の一つの目安である100球も投げておらず当然、続投が予想された。しかし、落合監督は審判に投手交代を告げたのだ。マウンドに登ったのは中日の守護神である岩瀬仁紀(いわせ ひとき)選手だ。
異様な雰囲気の9回表を岩瀬選手は三者凡退に打ち取り中日は53年ぶりの日本一を達成。また、日本シリーズ史上初めて継投による完全試合が達成されたのだ。
この投手交代は様々な波紋を呼んだ。しかし、落合監督は「完封目前の試合で逆転され第6戦以降、敵地札幌ドームに行くことになったら日本一になれない」と考えており、チームが勝つための最善策としてシーズンを守護神として戦った岩瀬選手をマウンドに送ったのだ。
勝つためにはときに非情にならなければいけない、ということを教えてくれた采配でもあった。

日本一達成以降も常勝軍団を継続

落合監督は2007年に日本一を達成後も中日を常勝軍団として育て上げる。2008年こそ3位だったが2009年は2位、2010年、2011年とレギュラーシーズンを1位で終えた。2010年、2011年と2年連続で日本シリーズに進出を果たしたがロッテ、ソフトバンクにそれぞれ敗れ2度目の日本一達成とはならない。
しかし、結果的に監督在任8年間すべての年においてAクラスを達成するなど中日史上に残る名監督として後任の高木守道監督へチームを引き継ぐ。
中日の監督として戦った8年間で残したものは大きくチームに影響を与えた。1953年生まれの落合監督は2017年で64歳となる。監督を再び行うとしたらギリギリの年齢なのだろうが、もう一度「オレ流」が見たい。そんなファンも多くおり最後の監督就任に期待がかかる。