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【球史に名を残した偉人達】甲子園で二刀流の活躍・桑田真澄選手

2017 4/12 20:20cut
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進路問題で転校を余儀なくされた中学時代

桑田真澄選手は大阪府八尾市出身で小学生の頃からボーイズリーグのチームである八尾フレンドで野球を始める。後に八尾フレンドはPL学園から同志社大学、トヨタ自動車を経て楽天に入団する平石洋介選手も輩出している。
中学に進学すると桑田選手は大正中学に進学し1年時からエースとして活躍。バッテリーを組んでいたのは南海、広島、巨人で活躍する西山秀二選手だった。 順風満帆に見えたが高校進学時に問題が起こる。PL学園に進学を希望していた桑田選手と上宮高校に進学させたい中学校側で騒動が起きたのだ。
両校ともに桑田選手が入学するのであればその他の選手たちの面倒を見る条件を出していたが、その人数に違いがあったのだ。PL学園は3人、上宮は5人と上宮のほうが好条件だったために中学校側は上宮へ桑田選手を進学させようと画策する。
しかし、中学校の都合で進路を決められるのが嫌だった桑田選手は転校することになるのだ。 高校に入る時点で既に争奪戦となる人材だったことがよくわかるエピソードだ。

球拾いから甲子園優勝へ、激動の1年時

PL学園に入学した桑田選手は、同期の清原和博選手らと1年生の夏から甲子園で活躍しているが、入学直後は球拾いだった。投手として入学した桑田選手は入学時の身長が170センチ程度と低かったため、チャンスを与えてもらえず外野に転向させられていたのだ。
しかし、球拾い後の返球を見たコーチが桑田選手に惚れ込み、投手として指導を始めたのだ。ここから桑田選手のサクセスストーリーが始まったといえるだろう。初めての夏の甲子園予選では清原選手らとともに1年生からベンチ入りを果たす。
初登板となった大阪府予選4回戦の吹田高校戦で桑田選手は9回を被安打2で完封、6奪三振と完ぺきな投球を見せ、エース格にのし上がる。以降の大阪府予選で先発はなかったものの4試合全てに登板。予選を勝ち抜き甲子園進出を決めた。甲子園では背番号「11」をつけベンチ入り。1年生のベンチ入りは清原選手と桑田選手2名のみだった。
夏の甲子園では初戦から先発を任され優勝までに4勝を挙げる活躍。清原選手と旋風を巻き起こす。 外野からの返球を認められて特別指導、予選で活躍からエースへと抜擢され甲子園に出場し優勝。4月に入学し8月の甲子園終了までにこれだけの事が起こっていたのだ。

やまびこ打線の池田高校に圧勝

桑田選手にとって初めての甲子園となった1983年夏の選手権大会。この大会の大本命は『やまびこ打線』、そして『阿波の金太郎』こと水野雄仁選手を擁する池田高校(徳島県)だった。
池田高校は1982年夏の選手権大会、1983年春の選抜大会と連覇を果たしており、夏春夏の三連覇を目指していたのだ。順調に勝ち進んだ池田と桑田選手擁するPL学園は、準決勝で対戦することになる。
大方の予想は池田の圧勝だ。「桑田選手、清原選手というスーパー1年生がいるとはいえそこはまだ1年生。池田の経験に及ばない」という声が多く挙がっていた。
しかし、試合が始まるとPL学園打線が水野選手に襲いかかり、試合序盤の2回に4点を奪う猛攻で試合を優位に進める。その後も追加点を奪ったPL学園が7-0で池田に圧勝。3連覇の夢を阻んだのだ。清原選手は4三振と抑え込まれたが、周りのサポート、桑田選手の好投で最強チームを撃破し、決勝に進む。
この試合で桑田選手は池田を5安打、102球で完封。恐るべき一年生投手が現れたと大きく報道もされた。決勝でもその勢いで、Y高こと横浜商業高校(神奈川県)相手に3-0で勝利し、優勝を果たしたのだ。

最後の夏をサヨナラで締めくくる

1年夏の選手権で優勝を飾ったものの2年春、夏と連続準優勝、3年春はベスト4に終わったPL学園。そして、桑田選手にとって最後の夏は記録的な大量得点で幕を開けた。
東海大山形高校(山形県)に29-7と史上最多得点で圧勝。危なげなく決勝まで勝ち進んだPL学園最後の相手は宇部商業高校(山口県)だった。宇部商業は『ミラクル宇部商』と呼ばれるほど劇的な試合が多くPL学園、報徳学園高校(兵庫県)とならび逆転の御三家とも呼ばれている。
PL学園と宇部商業の決勝戦は宇部商業が先制するもPL学園が清原選手の2本塁打などで追いつき3-3のまま試合は9回裏PL学園最後の攻撃を迎えた。
この回、二死から安打、盗塁でチャンスを作ると最後はサヨナラヒットで劇的なサヨナラでの優勝が決まったのだ。桑田選手、清原選手は最後の夏を見事優勝で締めくくる。この試合で桑田選手は20勝を達成した。 かの有名な実況でもある「甲子園は清原のためにあるのか?」もこの試合で生まれている。
桑田選手の甲子園は「ミラクル宇部商」にサヨナラ勝ちで勝利を収める最高の形で幕を閉じた。1983年夏から1985年夏の5季で魅せたPL学園のKKコンビを超えるスーパースターは今後、現れないかもしれない。それほどまでのインパクトを残し甲子園を後にしたのだ。

甲子園通算20勝、6本塁打

桑田選手は甲子園通算20勝(3敗)という成績を残している。これは、吉田正男選手(中京商)の23勝に次ぐ歴代2位の記録だ。吉田選手の記録は旧制中学時代の記録となっており、6季出場が可能だったため桑田選手を1位とすることもある。
桑田選手は1年夏から3年夏まで5季連続で甲子園に出場。PL学園が挙げた23勝のうち20勝をマークしている。桑田選手に続くのは箕島高校(和歌山県)の石井毅選手が残した14勝なのでその凄さがわかる。
甲子園通算本塁打の記録を持っているのは『KKコンビ』として桑田選手と同じ時代にPL学園学園で活躍した清原和博選手の13本だ。2位は6本で桑田選手、上宮高校(大阪府)の元木大介選手の2人が続く。桑田選手は清原選手に次ぐ本塁打記録の持ち主だったのだ。プロ入り後も「野手へ転向したほうが良い」という声が多く挙がっていたほど野球センスに溢れていた。
桑田選手は投手に専念し二刀流としてはプレーしなかったが、現役時代の打撃成績は打率.216、7本塁打、79打点と野手顔負けの数字だ。現代に桑田選手が生まれていたら大谷選手同様に二刀流として活躍していたかもしれない。
甲子園で圧倒的な成績を残した桑田選手は進学を希望しながらもドラフトで巨人に指名され入団。密約など様々な憶測が飛び交った。しかし、桑田選手の残した甲子園での実績は色褪せることはない。清原選手とのKKコンビで一世を風靡した桑田選手に並ぶ活躍を見せるスーパースターは果たしてこの先の未来で誕生するだろうか。 もしかしたら、東大で指導を行ったように桑田選手が高校球児を育て、甲子園のスーパースターになるかもしれない。