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【球史に名を残した偉人達】侍ジャパンの愛称を定着させた原辰徳監督

2017 4/12 20:20cut
野球ボール,ⒸShutterstock.com
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名将のなに恥じない輝かしい戦歴

原辰徳元巨人監督は1995年に現役を引退後野球評論家の活動を経て1999年にコーチとして入閣。2001年オフに監督に就任した。その後、一度は解任されたものの再任。二期合計12年もの間巨人軍を率い輝かしい戦績を残している。また、2009年には侍ジャパン日本代表を率い第2回WBCで二連覇を達成。歴史に名を残す名将となった。
その、原監督の戦績は下記のとおりだ。

★巨人軍監督として
<第一次原政権>
2002年:1位 86勝52敗2分 .623(日本一)
2003年:3位 71勝66敗3分 .518

<第二次原政権>
2006年:4位 65勝79敗2分 .451
2007年:1位 80勝63敗1分 .559
2008年:1位 84勝57敗3分 .596
2009年:1位 89勝46敗9分 .659(日本一)
2010年:3位 79勝64敗1分 .552
2011年:3位 71勝62敗11分 .534
2012年:1位 86勝43敗15分 .667(日本一)
2013年:1位 84勝53敗7分 .613
2014年:1位 82勝61敗1分 .573
2015年:2位 75勝67敗1分 .528

通算:947勝712敗56分 .571

★WBC日本代表監督として
第2回WBC:優勝(7勝2敗)

原監督は巨人を12年間率いて2度の三連覇を含む7度のリーグ制覇し3度の日本一を達成。リーグ優勝7回は川上哲治監督(11回)、水原茂監督(8回)、藤本定義監督(8回)に次ぐ巨人歴代4位の記録だ。
また、通算947勝は川上監督(1066勝)、長嶋茂雄監督(1034勝)に次ぐ3位の記録となっている。歴代でも14位となっており巨人史上だけでなくプロ野球史上に残る名将といえるだろう。

星野監督に励まされた悲しい最後

2001年巨人が2位になったことで9年間に渡りチームを率いてきた長嶋茂雄監督が勇退する。代わって「原ヘッドコーチ」が「原監督」に昇格した。
監督1年目のシーズンとなった2002年は、6月半ばに首位に立つと以降は一度も首位を明け渡すことなくリーグ優勝を果たす。2001年に2位となったもののリーグ最下位だった防御率がリーグ1位に改善。上原浩治選手が17勝で最多勝、桑田真澄選手、高橋尚成選手もそれぞれ二桁勝利を挙げ、抑えに抜擢した河原純一選手が28Sをマーク。打撃陣では松井秀喜選手が50本塁打、107打点で二冠王を獲得。高橋由伸選手、清水隆行選手も3割達成と活躍すべき人が活躍したシーズンだった。
優秀な選手たちが揃う巨人だが原監督の用兵もうまくいき優勝に繋がったのだ。その勢いのままに日本シリーズでも西武を4勝0敗で下し監督初年度で日本一に輝く。
しかし、そのオフに松井秀喜選手がFA宣言でチームを去りMLBのニューヨーク・ヤンキースへ移籍するなど戦力が低下。また、投手陣が機能せず阪神に優勝をさらわれてしまう。原監督は日本一から3位となり辞任することになった。
その原監督の甲子園球場での最終ゲーム。大きなサプライズが待っていた。試合が終わり引き上げようとする原監督へ甲子園球場全体から「原コール」。原監督はグラウンドに姿を現し声援に答える。そして、敵将である星野仙一監督から花束を受け取る。星野監督は「くじけるな。また戻ってこいよ」とエールを送り原監督は男泣き。
東京ドームで行われなかったセレモニーを甲子園球場で伝統の一戦後に開催。こんな粋な計らいを星野監督はやってのけたのだ。

メークレジェンドと三連覇

2003年に原監督が辞任し堀内恒夫監督体制となった巨人だが2004年、2005年と成績を残すことができない。そして、3年ぶりに満を持して原監督が再登板することになったのだ。
2006年に原監督は再び巨人のユニフォームを着てチームを率いる。2006年こそ4位に終わるが2年目の2007年から三連覇。初めて日本一になったときの主軸である松井選手、桑田選手はおらず中心選手は内海哲也選手、阿部慎之助選手、小笠原道大選手らに代わっていた。
2007年こそクライマックスシリーズで中日に敗退し日本シリーズに進出できなかったが2008年、2009年は日本シリーズに進出。2009年に自身二度目の日本一を達成する。 日本一になることはできなかったものの2008年のシーズンがファンの方には印象に残っているのではないだろうか。この年は7月11日に首位阪神と巨人は13ゲーム差あり7月22日には阪神に優勝マジックが点灯するなど独走状態だったのだ。
しかし、一歩ずつ阪神を追い詰めていき最終的に逆転。1996年に11.5ゲーム差を逆転した際の「メークドラマ」を文字ってファンは「メークレジェンド」と呼んだのだ。

主力の交代により二度目の三連覇達成

2007年から2009年までリーグ三連覇を達成した原監督だが2010年、2011年と連続3位となってしまう。 2012年にはチームが大きく変わる。三連覇を支えてくれた「オガラミコンビ」こと小笠原道大選手が衰え出番が減少。そして、ラミレス選手がDeNAへ移籍する。その代わりに巨人へやってきたのが村田修一選手(前横浜)、杉内俊哉選手(前ソフトバンク)だ。また、坂本勇人選手が不動の遊撃手に育ち前回の三連覇からチームは変貌を遂げた。
迎えた2012年に巨人はスタートダッシュに失敗、5位でGWに突入する。しかし、以降は着実に勝ちを拾い7月に首位を確保。そのまま優勝まで走り抜けた。クライマックスシリーズで中日を下し日本シリーズでは日本ハムに勝利。3年ぶりの日本一に輝いたのだ。
2013年は開幕7連勝と波に乗ると首位を譲ったことはあるものの、ほぼ独走で原監督はセリーグ二連覇を達成。クライマックスシリーズで広島を下し日本シリーズで楽天に挑む。
楽天の監督は第一次原政権時に阪神の指揮官としてセレモニーを行ってくれた星野監督だった。しかし、闘将星野監督にあと一歩及ばず日本シリーズに連覇はならなかった。 2014年はリーグ制覇をするもののクライマックスシリーズで敗退。2015年はリーグ2位となった原監督。2012年の日本一から一年で一つずつ後退してしまったのだ。 このリーグ2位を持って原監督は勇退する。二期12年にも渡り巨人の監督を務めた原政権が幕を閉じたのだ。

WBC監督として「侍ジャパン」を定着させる

第二次原政権の真っ只中である2009年のWBCで原監督は日本代表の監督を務めた。2008年にセリーグ二連覇を果たしており実績も十分だ。 代表監督は初めての経験となったが、前回大会で日本を優勝に導いた王監督の後でも気後れすること無く選手選考をし采配を振るった。
原監督は前回大会の「王ジャパン」や北京オリンピックの「星野ジャパン」といった監督名とジャパンを代表の愛称とすることではなく新たに名将を考えてほしいとNPBに打診。その結果、現在も定着している「侍ジャパン」の名称となったのだ。
WBC本戦では1次ラウンド、2次ラウンドで不調だったイチロー選手を外すことをせず最後まで信じ決勝打を呼び込んだ一方で、抑えにダルビッシュ有選手を起用するなど大胆な采配も見られた。
原監督の落ち着きそして信念が日本代表は二連覇を達成したとも言えるだろう。 優勝が決まった後の祝勝会で「本当にお前さんたちはねぇ……強い侍になった!」とシャンパンファイトの挨拶をした。まさに「侍」という表現を定着させてくれた。
現在は巨人の監督を勇退し現場からは離れているが母校である東海大学の客員教授を務めるなど精力的な活動をしている。1958年生まれで2017年に59歳となる原監督。もう一度監督登板があるのだろうか。その時を期待したいと思う。