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【球史に名を残した偉人達】三冠王から球界革命・野村克也選手

2017 4/12 20:20cut
>バッターⒸShutterstock.com
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記録達成もすぐ王選手に抜かれてしまう

野村選手は4年目となる1957年に初の打率3割、30本塁打を達成し、本塁打王に輝いた。これが、初タイトルだ。それ以降も毎年本塁打を量産し、1961年に29本塁打で自身2度目の本塁打王を獲得する。
そして1963年に当時の日本記録となる52本塁打を放ちNPB史に名を刻んだ。しかし、翌1964年に王貞治選手が55本塁打をマークし野村選手の記録は1年で塗り替えられてしまったのだ。
1965年には打率.320で自身初の首位打者を獲得すると42本塁打、110打点で本塁打王、打点王にも輝き戦後初の三冠王となった。戦前を含めると中島治康選手が1938年秋が達成しており27年ぶりの快挙だ。しかし、この三冠王も1973年に王貞治選手が達成。翌1974年にも二年連続で三冠王を成し遂げしわずか8年で野村選手の記録が表に出なくなってしまう。
野村選手は記録を作っても王選手に抜かれてしまうのが常となっていたのだ。

『球界に革命を起こそう』

野村選手は様々な革命を球界に起こした。その一つが抑え投手の確立だ。1960年代、1970年代は先発投手が完投するのが当たり前で現在のように中継ぎ、抑えといった分業制はなくエース格の選手は毎日のように先発し完投していたのだ。
この流れに一石を投じたのが野村選手だった。1976年に阪神から移籍してきた江夏豊選手を1977年途中に抑え投手に指名したのだ。先発投手が優遇されていた時代でもあり、エース格のプライドもあった江夏選手はなかなか首を縦に振らない。しかし、野村選手の「球界に革命を起こそう」というセリフで口説かれシーズン途中から抑えに転向。19セーブをマークし最多セーブに輝いたのだ。
後に江夏選手は「革命を起こそうと言われていなかったら抑えをOKしていなかったと思う」と語っていることからも野村選手のセリフが心に刺さったことを表している。
江夏選手は1978年に広島へ移籍するが抑え投手として活躍。『江夏の21球』を経て1979年に日本一、日本ハムに移籍後を含め4年連続で最多セーブに輝くなど史上最多タイとなる5度のタイトルを獲得している。
『江夏の21球』も野村選手の一言があったからこそ生まれたものと言えるのだ。

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