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【球史に名を残した偉人達】三冠王から球界革命・野村克也

2017 4/12 20:20cut
バッターⒸShutterstock.com
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テスト入団からの這い上がり

野村克也は京都府の竹野郡網野町で生まれ育つ。父が早くに亡くなり、母も病弱ということで野村は中学卒業後に就職して働くことを考えていた。しかし、兄の助けもあり府立の峰山高校へ進学。高校時代は甲子園に縁がなく、チームも初戦突破がやっとという状況で野村も無名の存在だった。

当時のプロ野球はドラフト制度がなかったために完全自由競争だ。しかし、無名の選手は各球団が行っている入団テストに合格すれば、プロ入りすることが可能だった。1953年に阪神に入団し、『精密機械』と呼ばれ通算350勝を挙げた小山正明もテスト入団だった。

1954年、野村は高校卒業後に南海のテストを受け入団を果たした。高卒のテスト入団だった野村は1年目9試合に出場するが無安打。オフには戦力外の候補となってしまう。だが、チーム事情と自身の交渉の末になんとか残留。首の皮一枚残った。2年目は一軍出場はなかったものの二軍で結果を残し、翌年につなげる。3年目となる1956年に野村はレギュラーを掴み、129試合に出場し大捕手への道を歩み始める。

タイトル獲得するも知名度は上がらず『月見草』に

1956年に南海のレギュラーを獲得後は、1961年から1968年まで8年連続本塁打王、1962年から1967年まで6年連続で打点王に輝くなど南海だけでなくパ・リーグ、球界を代表する捕手となった。連続記録は2019年終了現在でもパ・リーグ記録となっている。

現役引退した1980年までに獲得したタイトル、表彰は数知れずベストナイン19回は史上最多。今後も更新が難しいであろう記録の一つとなっている。

【野村克也の獲得タイトル、表彰】
MVP:5回
ベストナイン:19回
ダイヤモンドグラブ賞:1回
三冠王:1回
首位打者:1回
本塁打王:9回
打点王:7回


これだけのタイトルを獲得しているにも関わらず、同じ時代に王貞治、長嶋茂雄がいたこと、そして、パ・リーグの南海所属だったことで知名度は上がらず悔しい思いをした。野村はこれらの経験から「王や長嶋がいたから自分がここまでこれた。花にもヒマワリもあればひっそりと咲いている月見草だってある」と語っている。この発言後から『月見草』が野村の代名詞となったのだ。

記録達成もすぐ王に抜かれてしまう

野村は4年目となる1957年に初の打率3割、30本塁打を達成し、本塁打王に輝いた。これが、初タイトルだ。それ以降も毎年本塁打を量産し、1961年に29本塁打で自身2度目の本塁打王を獲得する。そして、1963年に当時の日本記録となる52本塁打を放ちNPB史に名を刻んだ。しかし、翌1964年に王貞治が55本塁打をマークし野村の記録は1年で塗り替えられてしまったのだ。

1965年には打率.320で自身初の首位打者を獲得すると42本塁打、110打点で本塁打王、打点王にも輝き、戦後初の三冠王となった。戦前を含めると中島治康が1938年秋に達成しており、27年ぶりの快挙だ。しかし、この三冠王も1973年に王貞治が達成。翌1974年にも二年連続で三冠王を成し遂げ、わずか8年で野村の記録が表に出なくなってしまう。野村は記録を作っても王に抜かれてしまうのが常となっていたのだ。

『球界に革命を起こそう』

野村は様々な革命を球界に起こした。その一つが抑え投手の確立だ。1960年代、1970年代は先発投手が完投するのが当たり前で現在のように中継ぎ、抑えといった分業制はなくエース格の選手は毎日のように先発し、完投していたのだ。

この流れに一石を投じたのが野村だった。1976年に阪神から移籍してきた江夏豊を1977年途中に抑え投手に指名したのだ。先発投手が優遇されていた時代でもあり、エース格のプライドもあった江夏はなかなか首を縦に振らない。しかし、野村の「球界に革命を起こそう」というセリフで口説かれ、シーズン途中から抑えに転向。19セーブをマークし最多セーブに輝いたのだ。後に江夏は「革命を起こそうと言われていなかったら抑えをOKしていなかったと思う」と語っていることからも野村のセリフが心に刺さったことを物語っている。

江夏は1978年に広島へ移籍するが抑え投手として活躍。『江夏の21球』を経て1979年に日本一、日本ハムに移籍後を含め4年連続で最多セーブに輝くなど史上最多タイとなる5度のタイトルを獲得している。『江夏の21球』も野村の一言があったからこそ生まれたものと言えるのだ。

受け継がれるヘルメット

野村のエピソードとして有名なものに『ヘルメット』の話がある。野村の頭は大きく当時の日本にフィットするヘルメットがなかった。仕方なくサイズの合わないヘルメットを着用していたのだ。

1970年のシーズン開幕前にオープン戦として行われた日米野球であることを思いつく。来日していたサンフランシスコ・ジャイアンツの選手たちが着用しているヘルメットなら自分にも合うのでは?と考え全日程が終了後に用具係に頼み手に入れたのだ。

ジャイアンツのカラーは黒だったが南海カラーであるグリーンに塗装し着用し始めたのだ。これ以降、野村選手は1980年に西武を引退するまでこのヘルメットを着用し続けた。移籍したチームカラーに合わせ黒から緑、そしてロッテでは黒、西武では青と塗装していたのだ。

野村の現役引退後は、西武球団のロッカーに保管されることになる。倉庫で5年間眠りについていたヘルメット。それが蘇る日が来たのだ。1985年のドラフト1位で西武に入団した清原和博も、野村同様に頭が大きく困っていたのだ。そこで、あてがわれたのが倉庫に眠っていたあのヘルメットだった。清原は西武から巨人、オリックスと移籍するが、野村同様に塗装しながら同じヘルメットを着用し続けたのだ。

野村は選手として様々なタイトルを獲得するなど偉大な選手だ。だが、成績だけでなく様々なエピソードがあるからこそ親しまれているのだろう。選手としては『月見草』発言、監督としては『ボヤキ』などエピソードには事欠かない。こういうことからも野村は成績面だけでなく多くの面で記憶に残る偉大な選手だったと言えそうだ。