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ダイ・ハード打線の中核も担った!井口資仁のダイエー時代を振り返る

2017 4/12 20:20Mimu
野球ボール,ⒸShutterstock.com
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現役最年長野手の全盛期はダイエー時代

今やすっかりロッテの顔になった井口資仁選手。2015年に中日ドラゴンズの谷繁元信さんが引退して監督選任になったことにより、2016年シーズンからはNPBの最年長野手になった。ちなみに最年長投手は中日ドラゴンズの岩瀬仁紀選手なのだが、井口選手は74年12月生まれ、岩瀬選手は74年11月生まれということで、2人は同級生ということになる(岩瀬選手も山本昌さんや三浦大輔さんの引退によってNPB最年長の投手となった)。
さてその井口選手なのだが、2016年シーズンも79試合に出場しており、未だその存在感は健在だ。しかし、古くからの野球ファンの方にとっては、やはり井口選手はダイエーホークス時代のイメージも強いのではないだろうか。何せ当時から素晴らしい成績を残してきた。特に01年の30本カルテットや、03年のダイハード打線にはワクワクさせられた。今回は井口選手のダイエー時代について詳しく振り返ってみよう。

華々しいデビューを果たすも打撃成績は粗さが残る

井口選手は東京都の國學院久我山高校から青山学院大学を経て、当時の逆指名制度によって福岡ダイエーホークスへと入団した。1年目はオープン戦でけがをしてしまったため、開幕こそ間に合わなかったが、5月3日の近鉄戦で初出場初先発を果たすと、第1打席でいきなりのプロ初安打、そして第3打席ではプロ初本塁打を満塁ホームランで飾る。
このように、華々しいデビューを飾った井口選手だが、その後はなかなか打率が上がってこず、主に下位打線での起用が中心となった。最終的には76試合の出場で8本塁打を放つものの、打率は.203(217-44)に三振は67個と、粗さの方も目立っていた。

低打率に三振多いも、光る勝負強さを発揮

それでも2年目は135試合に出場する。打率.223に121個の三振と、前年以上に粗さも目立っていたものの、それでも持ち前の長打力を生かし、21本塁打 66打点を記録した。7?9番あたりでの出場が多かったのだが、下位打線でこの数字は相手からすれば驚異的だったことだろう。盗塁も12個記録し、俊足もアピールする。
3年目も相変わらず.224という低打率。さらに出場試合数は116試合と減ってしまったにも関わらず、113三振も喫してしまう。開幕当初は3番で起用されていた打順も、やはり前年同様に下位打線での出場が中心だった。それでもサヨナラ打を3本も放ったり、シーズン優勝を決めた試合では決勝本塁打を放ったりなど、勝負強さが光ったシーズンでもあった。
しかし、翌2000年はケガのため出場試合数が激減してしまう。チームは2年連続のリーグ優勝を果たしたが、井口選手のレギュラーの座は、徐々に怪しいものになってきた。そして復活をかけるべく、シーズンオフには登録名を本名の「忠仁」から「資仁」へと変更するのだ。

セカンドにコンバートされ自己最高の成績

改名して挑んだ2001年は、飛躍の年となった。この年から安定した守備が持ち味の鳥越裕介さんにショートのポジションを譲り、自身はセカンドへとコンバートされる。すると守備の負担が減ったのが好影響を与えたのか、打撃成績が急上昇。打率は高いとはいえないものの、今までより4分も高い.261を記録する。そして本塁打は30本塁打と大台を突破、さらに44盗塁で自身初のタイトルとなる盗塁王も獲得するのだ。
これまではクリンナップを期待されながらも、粗さの方が目立ってしまい、いつの間にか下位打線へ追いやられてしまうことも多かったのだが、この年はほぼ1年を通して3番セカンドに定着する。また四球の数も大幅に上昇したのも大きかった。98年には135試合で28個、99年も113試合で38個だった四球が、一気に61個まで増えた。打率の急上昇と盗塁王獲得には、このような秘密があったのだ。
また、この年は史上初めて同一チームに30本塁打以上はなった日本人打者が4人誕生した年でもある。井口選手の30本塁打をはじめとして、松中信彦さんが36本塁打、小久保裕紀さんが44本塁打、城島健司さんが31本塁打を放ったのだ。近鉄バファローズがそれ以上に強力な打線を形成していたため、優勝とはならなかったが、それでも後にもっと強力な打線を形成するメンバーが、徐々にそろい始める。

【2003年その1】自己最高の成績に日本一を達成した2003年

そしてさらに数字を伸ばしたのが2003年だ。2002年はやや成績を落としてしまい打率.259 18本塁打 21盗塁だったのだが、翌03年は自己最高、そしてチームとしても最高の成績を残した。この年は開幕当初こそ7番だったものの、4月6日には通算100本塁打を記録し、徐々に調子を上げていく。そして4月の中頃には3番セカンドに復帰すると、6月にはNPB記録タイとなる5試合連続猛打賞も記録。打率も急上昇していき、首位打者争いを繰り広げるまでになった。
最終的な打率は.340で、当時日本ハムだった小笠原道大さんの.360には及ばなかったが、それまでの自己記録だった.261から大幅に数字を上昇させる。27本塁打に、自己最多となる109打点という数字も素晴らしい。
さらに42盗塁で、2年ぶりの盗塁王も獲得した。四球数82というのも自己最高の数字であり、112得点はパリーグの得点王。クリンナップとしての役割は十分すぎるくらいに果たしただろう。そして日本シリーズでは18年ぶりのリーグ優勝を果たした阪神タイガースを破り、99年以来の日本一をつかみ取る。

【2003年その2】NPBの歴史に残る超強力打線の一角を担う

そして03年といえば「ダイハード打線」とよばれるほど、非常に破壊力の高い打線だった。規定打席に到達した選手が7人いたのだが、そのうち6人が3割を達成。
そして同一球団内で4人の選手が100打点以上を記録したというのも、NPB史上初の出来事だった。それ以外でも30盗塁以上が3人、30本塁打以上が2人と、全く隙のない打線だったのだ。この年の個人成績をまとめると以下の通りとなる。

村松有人 .324(463-150) 6本塁打 57打点 32盗塁
川崎宗則 .294(493-145) 2本塁打 51打点 30盗塁
井口資仁 .340(515ー175) 27本塁打 109打点 42盗塁 (盗塁王)
松中信彦 .324(494-160) 30本塁打 123打点 (打点王)
城島健司 .330(551ー182) 34本塁打 119打点
バルデス .311(453-141) 26本塁打 104打点
柴原洋  .333(426-142) 4本塁打 53打点 11盗塁

さらに6月に加入したフリオ・ズレータや、代打の切り札・大道典良さん(当時の登録名は『典嘉』)も要所でいい働きをした。この年に記録したチーム打率.297というのは、未だにNPB記録だ。
オープン戦で小久保裕紀さんが大ケガに襲われ、不動の4番を欠いたシーズンだったが、その穴を全員が一丸となって埋めた結果、これだけの成績が残せたのだろう。

04年以降も見事な成績!いつの時代も光る勝負強さ

そして04年も打率.333 24本塁打 89打点 18盗塁という成績を残す。前年度の成績が非常に好調だったため、スケールダウンしたようにも見えてしまうが、それでも素晴らしい成績だ。この年も打線が好調で、特に松中信彦さんは三冠王を獲得。レギュラーシーズンを1位で勝ち抜いた。
その後、井口選手はメジャーリーグへと舞台を移し、ホワイトソックスでは1年目からワールドシリーズにも出場して世界一にも輝いている。また09年からはロッテへと復帰し、10年には日本一にも貢献した。
このように、どの時代でも変わらぬ勝負強さを発揮する井口選手だが、やはり01年や03年の井口選手やホークス打線というのは、見ていて非常にワクワクした。今のホークス打線も12球団屈指の力を持っているが、当時の打線も非常に面白かったと思う。