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1997年に成立したプロ野球のトレード、その理由と背景

2017 2/21 19:13
野球
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Photo by TK Kurikawa / Shutterstock, Inc.

1997年に行われた阪神タイガースと中日ドラゴンズの間でのトレードは、両チームのファンを驚かせた。 対象選手が、いずれもスタメンで活躍できる力量を備えていたからだ。 トレードに至った背景と、その後の選手たちの活躍を見ていこう。

1997年当時の阪神タイガースのチーム状況

1990年代の阪神タイガースは、まさに暗黒時代を迎えていた。1992年こそ首位争いを演じたものの、97年までの8年間で4回の最下位を経験していたのだ。
1997年には、球団史上初の日本一を指揮していた吉田義男氏が3度目の監督に就任した。しかし、年俸3億円超という破格の条件で入団した新外国人、マイク・グリーンウェル選手がわずか数試合で故障、電撃引退してしまい、4番不在の状態が長らく続いた。さらに正捕手も不在で、結局このシーズンは5位で終わり、4番を打てる大砲と、投手陣を支える正捕手の補強が至上命題となっていた。

1997年に起きた変化の対応に苦慮した中日ドラゴンズのチーム事情

1997年の中日ドラゴンズは大きな変革期を迎えていた。12球団の中でも1、2を争う狭さだったナゴヤ球場から、フェンスが高く全体的に広いナゴヤドームに移転したのだ。
新球場では、野手陣が不慣れなプレーを連発してしまい、強竜打線と恐れられていたチームも、本塁打数を前年の179本から60本近く減らしてしまった。投打に渡り精彩を欠き、終わってみれば前年の2位から急降下、11年ぶりの最下位となってしまったのだ。
この結果を受けて、長打力よりも守備力を重視した編成に着手せざるを得ない状況となった。

トレード対象となった阪神の2選手とは

1990年のドラフトで入団した関川浩一氏は、93年から1軍に定着しシュアなバッティングで実績を挙げたが、正ポジションであった捕手では盗塁阻止率ワーストを記録するなど、そのリードぶりには疑問符がついた。それ以降、外野手との兼任状態が続くが、打撃の方は96年から2年連続で3割を記録するなど安定していた。
久慈照嘉氏は、1992年のルーキーイヤーから正遊撃手として活躍。打率は2割4分台で終わるものの、堅実な守備が評価され、当時史上初の本塁打0で新人王に選出された。その後も全試合出場2回を含む、6年連続で120試合以上に出場、レギュラーとして大きな存在感を放っていた。

トレード対象となった中日の2選手とは

台湾出身であった大豊泰昭氏は、1988年のドラフトで中日に入団、4番候補として期待された。それに応えるかの如く、早い段階から持ち前の長打力で相手を圧倒し続ける。2年目に20本塁打を放つとその後も記録を伸ばし続け、94年には38本塁打を放ち、本塁打王と打点王の2冠王を獲得した。それ以降もナゴヤ球場では長打を量産し続けたが、97年のナゴヤドーム移転とともに本塁打数も激減、12本に終わってしまったのだ。
矢野輝弘氏は1990年のドラフトで捕手として中日に入団。96年には野口茂樹氏とのバッテリーでノーヒットノーランを達成するものの、当時の中日には中村武志氏という絶対的な捕手がおり、矢野氏は常に2番手の扱いだった。

トレード成立後の両チーム、選手の動向

阪神に移籍した大豊氏は、1997年に比べて本塁打数は多くなったものの、代打での活躍が多くなり打率も低迷した。一方、矢野氏は正捕手として定着、打撃も好調で3割を超える打率も複数シーズン記録し、2003年にはチーム18年ぶりのリーグ優勝に貢献するなど、引退するまで攻守に活躍した。
一方、中日に移籍した関川氏はナゴヤドームに対応できる外野手として活躍し、99年には1番打者として全試合に出場、打率3割3分を記録してチームのリーグ優勝に貢献した。久慈照嘉氏は中日移籍後、遊撃手と二塁手を兼任、試合終盤の守備固めとして欠かせない存在となった。

まとめ

中日と阪神間で行われたこのトレードは、当時のチーム事情に合致したものであり、実際に選手たちのその後の活躍には目覚ましいものがあった。 地元では圧倒的な人気を誇るこの両チーム間のトレードは、成功に終わったと言えるだろう。