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埼玉西武ライオンズの永久欠番とその背景をご紹介します!

2017 2/21 19:13
野球
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Photo by Suzanne Tucker/ Shutterstock, Inc.

西鉄ライオンズから1978年西武ライオンズが誕生し、29年間の間にリーグ優勝15回、日本一に9回もなっている。さらに2008年には埼玉西武ライオンズになった。その間に活躍をし、永久欠番となっている選手を振り返る。

埼玉西武ライオンズの永久欠番「24」稲尾和久選手

1973年に福岡野球株式会社に売却をされたときに稲尾選手が背番号を24から81へと変更した際に欠番になったが、永久欠番とはせず1976年古賀正明選手がつけている。その後秋山幸二選手や平野謙選手といった選手が背番号24をつけていった。
2012年の稲尾和久選手生誕75周年を機に、7月1日のホームでの試合と7月4日の福岡での試合の際に埼玉西武ライオンズの全選手、監督、コーチが背番号24の西鉄復刻ユニフォームを着用をし試合終了とともに永久欠番となった。

埼玉西武ライオンズの準永久欠番「3」大下弘選手

1960年3月1日の大下弘選手の引退試合の後に当時の球団社長出会った西亦次郎氏が「大下選手の名に恥じない選手が出ればその選手に渡す。またその際には大下選手の同意を求める」という意向を発表したために一時欠番となった。
1968年に大下選手が東映フライヤーズの監督を務めることとなり、同じ時期にに中日ドラゴンズから移籍してきた広野功選手が背番号「3」をつけることとなり欠番ではなくなった。

埼玉西武ライオンズの準永久欠番「6」中西太選手

1970年三塁手を務めていた中西太選手の引退後、ふさわしい選手が出てくるまでは背番号「6」欠番にするということになった。その後球団が福岡野球株式会社へ売却される際に「新球団になったからいいんじゃないか」と当時監督を務めていた稲尾和久氏が推薦したことにより背番号「33」をつけていた菊川昭二郎選手が背番号「6」に変更したために欠番ではなくなった。
背番号「6」が欠番だった期間は1970年から1972年となる。

埼玉西武ライオンズの準永久欠番「27」伊東勤

2004年伊藤選手が引退に伴い監督就任となった時に伊藤選手自らが後継者として認めることができる正捕手が出てくるまでは背番号「27」は欠番とすることとなった。
2002年に入団した背番号「47」で入団した細川亨が2004年の途中から正捕手となりチームを日本一に導く影の立役者として活躍をし、2006年12月29日にその当時も監督を務めていた伊藤務氏の現役時代の背番号「27」を受け継ぐこととなり、欠番ではなくなった。

埼玉西武ライオンズの永久欠番ではなく期間限定での欠番「32,59」

2001年にミゲール・デルトル選手がオフの際に交通事故にあい急逝した。すでに退団が決定していたものの正式発表前だったために1年間の期間限定で欠番となっている。また、板沢峰生選手は二軍戦に多く起用され将来性を期待されていたが、1980年に急逝した。
そのため1981年から板沢選手の入団10年目になる1989年の間欠番となったが、1990年ドラフト6位で入団をしt北原泰二選手が背番号「59」を使用し、欠番ではなくなった。

まとめ

埼玉西武ライオンズには永久欠番、準永久欠番の他にも期間限定で欠番となっている番号があった。選手と背番号の背景を知ると野球をまた違った角度から見ることができ、より楽しむことができるだろう。