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オリックスバファローズの永久欠番を、チームの歴史を遡って紹介

2017 2/21 19:13
野球
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Photo by Alan C. Heison / Shutterstock, Inc.

オリックスバファローズには、ブレーブスからブルーウェーブ、そして現在のバファローズへと、変遷を重ねた歴史がある。その時代ごとにあった永久欠番は、次の時代へ思いを引き継ぐ役目も果たしていたのではないだろうか。オリックスバファローズの永久欠番を、その歴史を遡って紹介する。

準永久欠番「51」イチロー選手

1991年、イチロー選手はブルーウェーブ時代のオリックスにドラフト4位で入団し、1993年には代名詞となる「振り子打法」を作り上げた。 登録名を本名の「鈴木一朗」から「イチロー」に変更した1994年。1番打者に定着したイチロー選手は、史上初のシーズン200本安打を達成し、パリーグ新記録となる打率で首位打者を獲得。打者では最年少となるシーズンMVPも獲得している。
その後も1995年には打者五冠王、1998年にはプロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得など、偉業を次々と成し続け、チームに大きく貢献する。 そして2000年、イチロー選手の活躍の場はメジャーリーグへと移った。MLB移籍後、背番号51は誰にも使用されず、欠番のままとなっている。

準永久欠番「41」小瀬浩之外野手

小瀬浩之選手は、2007年にオリックスバファローズに入団。 2008年には2軍で好成績を収めて、夏には早くも1軍に昇格した。この年、小瀬選手はレフトの準レギュラーとして数多くの試合に出場し、オリックスバファローズの2位へ躍進に貢献している。 2009年は後半になるにつれ打率を上げ、盗塁もチーム4位となる「7」をマークする。 2010年、春季キャンプ中に急逝。宿舎となったホテルで転落しているところを発見され、帰らぬ人となった。
俊足巧打で「イチロー2世」と称され、将来を嘱望されていた24歳。 背番号41は欠番となり、多くの人が小瀬選手を偲んでいる。

準永久欠番「7」福本豊外野手

福本豊氏の入団は、阪急ブレーブス時代の1968年。 通算1065盗塁という当時の世界記録をはじめ、猛打賞178回、12年連続のゴールデングラブ賞など、数多くの記録を打ち立て、球史に残る功績を残している。
引退後は1989年にオリックスの一軍打撃コーチに就任。1990年から1991年までは二軍監督を務めた。
退任後は指導のほか、メディアにも活躍の場を広げ、2016年には再びオリックスで打撃や走塁の指導をしている。
背番号7の永久欠番は、通算盗塁世界記録達成の1984年に決定した。 しかし、当時まだ現役であるという理由で福本氏が辞退し、引退後、コーチと二軍監督を務めた1989年から1991年に再び使用している。 その後欠番となったが、2001年、福本氏公認のもと、進藤達哉選手に受け継がれた。

阪急ブレーブス時代の準永久欠番「3」長池徳士外野手

長池徳士氏は、1965年、阪急ブレーブス時代にドラフト1位で入団。 「ミスターブレーブス」と呼ばれ、阪急ブレーブスの4番として活躍した外野手だ。 入団2年目の1967年には、4打席連続となるホームランを放つなどの活躍で、阪急ブレーブスの初優勝に大きく貢献している。
1979年には兼任で打撃コーチも務めるようになり、後に現役を引退。1982年まで、コーチとして打撃を指導している。 退団後、背番号3は、1985年にジョー・ヒックスが使用した一年間を除き、1987年まで欠番となっている。

近鉄バファローズの永久欠番「1」鈴木啓示氏

鈴木啓示氏は、1965年、当時は近鉄であったバファローズに入団。 現役時代には投手として活躍し、通算317勝、340完投を記録するなど、多大な功績を残している。 入団以降、現役を引退して監督を務め上げるまで、鈴木氏は一貫してバファローズ一筋。低迷時代を支え続け、チームの躍進に大きく貢献した。
引退は1985年。同年、背番号1は永久欠番に制定された。
これはパリーグ初で、その後もパリーグでは長期間ただ一つのものとなっていたが、2004年のオリックスとの合併に伴って失効した。 背番号1は、鈴木氏の了承を受けて2005年には後藤光尊選手が使用し、他の選手にも引き継がれている。

まとめ

オリックスバファローズの永久欠番を、阪急ブレーブスまで遡って紹介した。 阪急からオリックスへと変わり、近鉄と合併し、チーム名も様々に変わってきたオリックスバファローズ。 永久欠番を知ることで、「今」へと引き継がれてきた、多くの選手やファン、球団関係者の思いを感じることができるかもしれない。