「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

福岡ソフトバンクホークスの永久欠番を南海とダイエー時代も含めて紹介

2017 2/21 19:13
野球
このエントリーをはてなブックマークに追加

Photo by Keeton Gale / Shutterstock, Inc.

福岡ソフトバンクホークスには準永久欠番がある。偉大な功績を称える「名誉番号」としての欠番が良く知られているが、「預かり」として空けておく場合もあるのだ。欠番となった理由を中心に、南海とダイエー時代も含めて紹介する。

準永久欠番「15」病気とも戦い抜いた31年の生涯。藤井将雄投手

藤井将雄氏は、福岡ダイエーホークス時代に「炎の中継ぎ」と呼ばれた投手だ。 1994年、ドラフト4位で入団すると、1年目から1軍で登板し、1完封を含む4勝を挙げた。3年目からは中継ぎへ転向して、右の中継ぎエースとして活躍。1999年には26ホールドという当時のパリーグ最多ホールド記録を樹立し、ダイエーのパリーグ初優勝に大きく貢献する。
しかし、日本シリーズを前に胸部に異常が見つかり、シーズン後に下された診断は「末期の肺がんで余命3カ月」。入退院を繰り返しながら2軍で調整を測ったが、ダイエーがパリーグ連覇を成し遂げた6日後の2000年10月13日、31歳という若すぎる生涯を閉じたのだ。 背番号15は福岡ダイエーホークスの準永久欠番となり、福岡ソフトバンクホークスとなった今も受け継がれている。

準永久欠番「52」活躍の場はメジャーリーグへ。川崎宗則遊撃手

1999年、ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団した川崎選手は、翌年には2軍で遊撃手のレギュラーに定着し、チームトップの打率を記録する。2004年には盗塁王と最多安打のタイトルを獲得、ベストナインとゴールデングラブ賞の表彰と、その活躍は新人時代から目覚ましいものだった。
その後も、オールスターゲーム優秀選手賞、セパ交流戦MVP、月間MVPなどを次々と獲得し1000試合出場や250盗塁の記録も打ち立てる。2006年と2009年にはWBC、2008年には北京オリンピックと、世界大会でも日本代表として活躍し、多くの人の注目を集めた。 2011年12月、川崎選手は海外FA権の行使を宣言し、2012年にはMLBに移籍した。活躍の場を海外に移した今も、背番号52は、福岡ソフトバンクホークスで欠番となっている。

準永久欠番「89」初めての優勝。そして日本一へと。王貞治監督

選手時代には通算本塁打868本を記録し、初の国民栄誉賞を受賞した人物としても知られる王貞治氏は、1994年、福岡ダイエーホークスの監督に就任すると、1999年にはリーグ優勝を成し遂げる。これは球団創設11年目にして初の快挙。さらには日本シリーズも制し、一気に日本一へと駆け上がる。翌年もリーグ優勝してV2を達成。2003年には日本シリーズまで制し、再び日本一に輝く。
2008年に体力的な問題を主な理由に退任した後は、ソフトバンクの球団会長に就任した。 選手時代に付けていた背番号1も良く知られているが、監督時代の栄誉を称え、背番号89は福岡ダイエーホークスの欠番となっている。

準永久欠番「90」ホークス一筋の野球人生。景浦安武外野手

景浦安武氏は、水島新司氏による野球漫画「あぶさん」の主人公。架空の野球選手だ。 景浦選手は1973年に南海へ入団するや、ホークス一筋。1988年に大阪から福岡へと移転を余儀なくされた時も、弱小チームだったダイエーを監督と共に支え最高齢で三冠王を獲得し盛り立てるのだ。 1999年の優勝まで、25年にもわたる低迷時代を支え続けた景浦選手。パリーグを中心として描かれた漫画作品は珍しく、景浦選手の背番号90は、連載開始とともに欠番とされていたのだ。
2009年に現役を引退した時には、漫画の中だけにとどまらず、実際に福岡Yahoo! JAPANドームで引退セレモニーが行われた。 37年の野球人生をホークス一筋に貫いた背番号90。2016年にはロベルト・スアレスがつけることとなり、長く続いた欠番も終わりを告げている。

準永久欠番「7、9、30」数年間の欠番を経て復活した背番号

久保寺雄二選手は念願の背番号7を付けてわずか1年、26歳という若さで急逝した。 欠番となったが、2年後に加藤英司選手が使用して2000本安打を達成し、その後も久保寺選手の志と共に様々な選手に受け継がれている。
小久保裕紀内野手の背番号9は、2003年に読売ジャイアンツへの無償トレード後、復帰を想定して欠番となった。2007年には復帰し、ゴールデングラブ賞や日本シリーズMVPなども獲得する活躍を見せる。 2012年の引退後にはその功績を称え、再び欠番となったが、2015年からは柳田悠岐選手が使用している。
鶴岡一人氏は、南海ホークスを優勝11回、日本一2回に導き、1773という歴代1位の勝利数をあげた名監督としてその名を刻んでいる。 監督時代の背番号30は1966年から欠番となっていたが、1980年に高英傑選手が使用することとなった。

まとめ

福岡ソフトバンクホークスの永久欠番を、南海とダイエー時代も含めて紹介した。 それぞれの背番号には、いかに大切に扱われているかが分かるエピソードがいろいろある。チームや選手を知るきっかけにもなり、ホークスをもっと好きになってほしい。