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歴代ドラフト1位の選手〈1〉千葉ロッテマリーンズ編

2017 2/21 19:13
野球
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Photo by Eugene Onischenko / Shutterstock, Inc.

千葉ロッテマリーンズは熱狂的なファンが多く、その応援は球場を揺らすほど。そんな声援の中でプレーする千葉ロッテマリーンズの選手たちの中には、ドラフト1位で入団し、活躍している選手が数多くいる。どんな選手がいるのか見ていくことにしよう。

「マサカリ投法」で有名な千葉ロッテマリーンズ村田兆治投手

当時、東京オリオンズの1967年のドラフト1位で入団した村田選手。2年目のロッテ時代に6勝するなど、先発ローテーションの1角に。1970年から当時の監督だった金田正一監督のアドバイスの元、村田投手の代名詞ともなるダイナミックな投法であるマサカリ投法が生み出される。
その後、1974年には日本シリーズで優勝し、胴上げ投手にもなった。投球スタイルもこのから変化が生じ、これまでの直球で押すピッチングからフォークボールを織り交ぜていくスタイルに。1976年には最優秀防御率、1979年には最多勝のタイトルを受賞し、球界にその名を残している。1983年には肘の手術を受け、翌年にはカムバック。
中6日・日曜日での先発起用ということで「サンデー兆治」とも呼ばれた。

「ミスターロッテ」千葉ロッテマリーンズ有藤道世選手

ロッテ一筋でその現役生活をプレーしたまさに「ミスターロッテ」こと有藤道世選手。1969年のドラフト1位入団の1年目からサードのレギュラーの座を獲得し、21本塁打の成績を残すなど新人王を獲得する。
1970年にはオールスターゲームにも選ばれ以降13年連続で出場するという記録も持っている。この年は、ロッテ優勝にも貢献し、5番で出場。打率3割、80打点、25本塁打という好成績でチームを牽引した。1973年には日本一にも貢献し、1977年いは打率.329で首位打者にも輝く。1985年には2000本安打も達成し、1987年引退後にはすぐ監督に就任した。

「超速球の持ち主」千葉ロッテマリーンズ伊良部秀輝選手

伊良部秀輝選手は、1987年のドラフト1位にてロッテに入団し、入団1年目から1軍にて活躍。当時から156km/hの剛速球を武器にしていた。「平成の名勝負」とうたわれた西武清原との対決時にマークした158km/hは当時の話題となった。
1994年には、オールスターゲームに選出の他、最多勝と最多奪三振のタイトルも手にする活躍を見せ、翌1995年には、最優秀防御率も獲得するなど、投手としての才能をさらに開花させていく。1996年には、ニューヨークヤンキースへ移籍し、初登板初勝利を手にし「和製ノーラン・ライアン」と呼ばれた。その後、エクスポズ、レンジャーズとメジャー球団を経て2002年に阪神タイガースへ入団し日本球界に復帰した。

「ロッテの顔」千葉ロッテマリーンズ愛甲猛選手

端正な顔立ちとそのルックスから横浜高校時代は甲子園のアイドルとも呼ばれた愛甲選手。3年生の甲子園決勝戦では、同じく早稲田実業で人気の高かったエース荒木大輔選手との投げ合いを制し日本一を経験している。
1980年ドラフト1位でロッテに入団当初は投手としてスタートするが、4年目から野手に転向して精進を続ける。主砲落合博光に弟子入りし打撃向上に努めた結果、1986年にはファーストでレギュラーを獲得するようになる。その後、1992年にはゴールデングラブ賞の獲得や連続フルイニング出場歴代5位記録も打ち出す。1995年には中日に移籍し、代打の切り札として活躍した。

「ミスターコントロール」千葉ロッテマリーンズ小宮山悟選手

1990年のドラフト1位にて入団した小宮山悟投手。ルーキーイアーから6勝を挙げるほか、チーム内では最多先発登板と最多投球回数を達成するなどの大活躍を遂げる。2年目のシーズンでは開幕投手を務める他、二桁勝利を獲得。その後も3年連続で開幕投手を任されることになる。
ロッテ以降は、横浜、ニューヨークメッツへと移籍し、その緻密なコントロールから「和製マダックス」とも呼ばれるほどだった。2004年からはロッテに戻り、ボビーバレンタイン監督のもとでチームに貢献を果たす。現役引退後、早稲田大学に入学し修士号を得る他、野球解説者としても活躍中だ。

まとめ

千葉ロッテマリーンズ歴代ドラフト1位選手の紹介をしてきた。投手、野手にと輝かしい記録を持つ選手ばかりだ。ロッテには、まだまだ注目すべき優秀な選手がたくさんいる。