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歴代ドラフト1位の選手〈1〉広島東洋カ―プ編

2017 2/21 19:13
野球
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Photo by b-hide the scene / Shutterstock, Inc.

2016年に25年ぶりのリーグ優勝を果たした広島東洋カープには、市民球団としてはじまった広島市民に愛されている球団だ。原爆の被害からの復興を目指して作られ歴史もあり名選手たちも多い。歴代のドラフト1位で入団をして活躍をした往年の名選手を振り返り紹介する。

広島東洋カープのミスター赤ヘルといったら 山本浩二氏

1968年にドラフト1位で法政大学から入団。翌年の開幕戦にはスタメンとして出場をした山本浩二氏は、1986年の40歳に引退するまで広島東洋カープで活躍し続けた。途中勝負師には向かないと言われて本名の浩司から浩二へ改名してまで勝負に徹底した。
才能が開花したのは30代になってからで、持病の腰痛に負担をかけない広角打法を身につけ、長距離打者となり、衣笠祥雄とはYK砲といわれ500本塁打コンビで、86本のアベック本塁打は日本プロ野球歴代2位の成績だ。1985年には史上2人目の通算500本塁打、200盗塁を達成し、大卒での通算536本塁打は日本最多記録など輝かしい成績で、チーム初優勝にも貢献をした名選手だ。

一年遅れで広島東洋カープに入団した池谷公二郎氏

1972年にドラフト1位に指名された池谷公二郎氏は、所属していた日本楽器からエースがいなくなるという理由で待ったをかけられて、1年後の1973年のドラフト会議前に入団をした。1975年の広島東洋カープの初優勝時には18勝、翌年1976年には20勝をあげて最多勝で沢村賞を受賞、1976年と1977年と2年連続の脱三振王になった。伸びのあるストレートは、「シーソー投法」や「ぎっこんばったん投法」といわれていて、右腕を腰の後ろ、左腕を高くあげるシーソーのようなフォームで遠心力を使って投げられた。その後、肩を痛め1985年に古葉監督と共に引退をした。

広島東洋カープの精密機械 北別府学氏

1975年に、宮崎県立都城農業高校から入団したが、甲子園に出場していない全国的には無名の選手だった。入団1年目から1軍で勝利をあげて、2年目の1977年からは先発ローテーションに入るほどだった。また、3年目の1978年に初めて10勝の二桁勝利をあげてから1988年までの11年間連続で二桁勝利をあげた。
1982年には20勝で最多勝で沢村賞を、1986年にはチームのリーグ優勝に貢献、最多勝、最優秀防御率、MVP、沢村賞と数々の賞に輝いた。1992年には球団仕様初の200勝であり、20世紀最後の200勝投手となった。また、広島東洋カープ初の1億円プレーヤーでもある。

広島東洋カープの巨人キラー 川口和久氏

小学生から少年野球チームで野球をしていた川口和久氏は、6年生の時に一塁手から投手に変更した。1977年にロッテオリオンズから指名されたが、社会人野球にすすみ、1980年に広島東洋カープからの1位指名で入団した。
プロ1年目のオープン戦から出場、一軍登録されたが、6月には、満塁本塁打を打たれ二軍落ちし、厳しい練習で自信をつけて、2年目の1982年には一軍へ昇格し、完封で初完投勝利をあげた。ノーワインドアップ投法からワインドアップ投法に戻すことで、1983年に月間MVPを受賞している。速球のコントロールを磨き、スクリュー、スライダーを覚えたりと年々技術を磨き、1994年に巨人に移籍し、1997年引退をした。

広島東洋カープの炎のストッパー 津田恒美氏

1981年のドラフト1位の津田恒美氏は、山口県の南陽工高校時代に2回甲子園に出場し、社会人野球の協和発酵から広島東洋カープへ入団した。1年目の1982年から先発投手として11勝して球団初の新人賞に輝いた。
しかし、2年目以降は血行障害に苦しめられて治療のために世界初の中指の靭帯摘出手術を受け、1986年からは抑え投手として復活。5度目のリーグ優勝に貢献し、カムバック賞を獲得した。また、1989年には最優秀救援投手、ファイアマン賞に輝いた。闘志あふれる剛速球と鋭いカーブで打者に立ち向かう姿から炎のストッパーと呼ばれ親しまれたが、1991年に悪性の脳腫瘍がみつかり、闘病の末1993年に32歳という若さでこの世を去った。

まとめ

広島東洋カープの歴代ドラフト1位の名選手たちを紹介した。今回紹介させていただいた選手たちは、赤ヘル軍団をささえ、盛り上げてきた選手ばかりだ。