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田澤純一以降のメジャー挑戦者を阻む「田澤ルール」とは?

2017 8/17 16:20cut
mlb,fenway
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通称「田澤ルール」とは

高校、大学、社会人などのアマチュア野球で活躍し、メジャーリーグを目指す選手にとって大きな壁となっているのが「田澤ルール」だ。

「田澤ルール」とは2008年のドラフト1位候補だった田澤純一がメジャー志望を打ち出し、ドラフト指名を回避してもらうよう「指名回避要望書」を12球団に送付したことが発端だった。

これを受けNPBは『将来有望な選手が日本球界に入らず、直接メジャーリーグへ入団することでNPB人気が下落』することを防ぐためのルールを作る。そのルールとは、『ドラフト前にNPBのドラフト指名を拒否した場合、海外球団を退団した後に、高校生は3年間、大学・社会人は2年間、指名を凍結する』というもの。これが「田澤ルール」だ。

海外チームに”入団後”ではなく"退団後"というのがポイントとなっており、アメリカなどの海外へ挑戦した場合、結果を残せず退団となってもすぐに日本のプロ野球でプレーすることができないのだ。

これが抑止力となったか定かではないものの、田澤以降でNPBを経ずにメジャー挑戦した選手は出ていない。

田澤の社会人時代は?

田澤は神奈川県の横浜商科大高校から新日本石油ENEOS(現JX-ENEOS)に進む。高校時代にエースとして活躍していた田澤は、社会人野球ではリリーフとして活躍。社会人2年目の日本選手権では3試合にリリーフ登板し、3回を無失点に抑える好投をみせている。

ダルビッシュ有(レンジャーズ)、涌井秀章(ロッテ)らと同世代の田澤は高校時代の注目度では二人に劣っていたが、社会人での成長もあり、高校時代以上にプロからの注目を集めることになる。

しかし、田澤は皮肉にも実力以上にメジャー挑戦表明が注目をあびることになった。2008年夏、田澤はプロ野球全12球団へ「指名回避要望書」を送付。2007年に田澤は日本代表としてIBAFワールドカップを戦い、アメリカで挑戦したい思いを募らせ、監督らに相談した結果、「指名回避要望書」に至った。

この「指名回避要望書」は波紋を呼んだが、NPBは指名可能と確認。しかし、田澤は指名されて入団を拒否してメジャーリーグに挑戦する意思を明らかにし、運命のドラフトを迎える。

2008年ドラフト当日。結局、田澤は指名されることなく会議は終了した。

1年目のホロ苦メジャーデビュー

ドラフト会議終了後、田澤は改めてメジャーリーグ挑戦を目指す。契約を結んだのはアメリカンリーグ東地区の雄ボストン・レッドソックスだった。レッドソックスは田澤と3年400万ドルでメジャー契約を結んだ。

メジャー1年目の田澤はマイナーで開幕を迎える。メジャー昇格を果たしたのは8月に入ってからだったが、幸運なことに昇格当日にデビューを果たす。デビュー戦の相手は、松井秀喜の所属するニューヨーク・ヤンキースだ。

デビュー戦では松井を抑えるものの、次の回にA-ロッドことアレックス・ロドリゲスにサヨナラホームランを浴びる。デビュー戦で黒星を喫した田澤は、1年目にメジャー初勝利もマークするが、2勝3敗、防御率7.46と不本意な成績に終わった。

2年目の田澤はスプリングトレーニングでヒジの違和感を発症し、トミージョン手術を受ける。この手術によって田澤は2010年を全休することになった。

退路を断ってワールドチャンピオンへ

田澤がメジャーリーグで実績を残し始めるのは、手術明け2年目となる2012年以降だ。2013年には71試合に登板し、セットアッパーとして、クローザーの上原浩治へ繋ぐ役割を果たす。田澤は安定した投球を見せ、レッドソックスはワールドチャンピオンに輝いた。NPBを拒否して退路を断った田澤は、見事にチャンピオンリングを手に入れたのだ。

ファンや関係者からは「成功するわけがない」、「甘く見るな」といった批判めいた声が多かったが、田澤は結果で見返した。田澤の勇気ある決断は、5年の時を経て花開いた。

その後も2016年までレッドソックスで中継ぎとして活躍し、2017年シーズンからはマイアミ・マーリンズで戦う。

田澤以降のメジャー志望アマチュア選手は?

田澤のドラフト以降、高校生、大学生でメジャーリーグ志望を打ち出す選手が増えてきた。

「田澤ルール」ができた1年後の2009年、春の選抜で152キロをマークし準優勝に輝いた菊池雄星(花巻東→西武)もその1人だった。

菊池はメジャー志望を打ち出し、甲子園でも結果を残したことから日米20球団と面談。面談終了後に菊池は両親、監督と相談し、高卒即メジャーを断念すると表明した。「日本で結果を残し認められてから世界で勝負する」というのが菊池の思いだった。

2009年ドラフトで菊池は6球団競合となり、抽選の結果、西武が交渉権を引き当て入団に至る。その後、菊池は西武で実績を残し、2016年シーズンは初めての規定投球回到達を果たした。2018年オフにもポスティングを用いたメジャー挑戦の可能性も報じられている。夢舞台へ菊池の挑戦は続く。

田澤のドラフトから5年後、菊池から4年後となる2013年のドラフトでは、大谷翔平(花巻東→日本ハム)が強いメジャー志望を表明した。大谷のメジャー志望は菊池よりも大きく報じられ、ドラフト当日もメジャー挑戦を語っている。

強い意志がある中で指名する球団が現れるのか注目を集めたが、日本ハムが1位指名を強行。ドラフト指名後も大谷は「動揺した。でも、アメリカでやりたい気持ちは変わっていません」と声明を発表する。

しかし、日本ハムの粘り強く誠意ある交渉で大谷は、日本ハム入団を決断した。この際、日本ハムが作成した30ページの資料「大谷翔平君 夢への道しるべ 日本スポーツにおける若年期海外進出の考察」は、日本ハムのホームページにも公開されている。

大谷のその後の活躍は目を見張るものがあり、2017年シーズン終了後にもメジャーリーグ挑戦が既定路線とされている。