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中日ドラゴンズの18番を背負ってきた名選手5人

2016 7/20 20:11
中日ドラゴンズ
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中日ドラゴンズファン必見!
多くの球団が背番号18をエースナンバーとして扱っているが、中日ドラゴンズはそうではない。
今回はそんな中日ドラゴンズの伝統ある18番を継承してきた名選手5人をピックアップして紹介しよう。※()は18番を背負っていた年度

名投手を多数育成”稲葉光雄”(1971年~1976年)

1970年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団した稲葉光雄選手は、2年目に20勝を挙げるなど主力として活躍する。その後は伸び悩み、2年目以降に中日ドラゴンズで2ケタ勝利を挙げることは出来なかった。しかし、トレードで移籍した阪急ブレーブスでは1年目から17勝を挙げるなど、4度の2ケタ勝利をマークする。
引退後はコーチとして中日ドラゴンズに戻り、多くの投手を育てる。しかし、試合前の練習中に身体の不調を訴え、病院に搬送されたが、そのまま息を引き取る。稲葉光雄コーチが育てた投手たちが現在活躍してチームを支えているのを、きっと天国から見守っているだろう。

危険球で退場といえばこの男”鹿島忠”(1983年~1996年)

鹿児島実業から鹿児島鉄道管理局を経て1982年のドラフトで1位指名された鹿島忠投手は、右の本格派投手として期待されて入団する。1年目は一軍登板はなく、2年目に7試合登板して覚醒の時を待った。5年目までは先発としての起用もあったが、6年目から引退までは貴重な中継ぎとしてチームに貢献する。
鹿島忠選手のハイライトは、読売ジャイアンツのウォーレン・クロマティ選手への危険球だろうか。その危険球で乱闘となり鹿島忠選手は退場処分を喰らっている。引退後は中日ドラゴンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスでコーチを務めるなど人望もあった。

星野監督の後輩”武田一浩”(1999年)

日本ハムファイターズ、ダイエーホークスで活躍した武田一浩選手は、1998年オフにFA宣言し、明治大学の大先輩である星野監督が率いる中日ドラゴンズに移籍する。武田一浩選手は、ダイエーホークス時代に17番を背負っていたが、中継ぎエースのサムソン・リー選手が17番をつけていたこともあり、中日ドラゴンズでは18番を背負う。
翌年、サムソン・リー選手の退団後は17番を背負っている。中日ドラゴンズへの移籍1年目には9勝を挙げ、11年ぶりの優勝に大きく貢献した。現在は、NHKのMLB放送で解説者を務めている。

抑えのエースが18番!?”ギャラード”(2001年~2003年)

メジャーリーグのシンシナティ・レッズから中日ドラゴンズに入団したギャラード選手は、抑えのエースとして活躍する。入団初年度は52番を背負っていたが、2年目から18番を背負う。抑えのエースで18番を背負うというのはあまり見かけなかったので、とても斬新だった。
2003年途中に首脳陣と対立して横浜ベイスターズへ移籍するまで抑えを任され、112セーブをマークする。横浜ベイスターズへ移籍後も、抑えのエースを任され、2003年は史上初の同一年度で2球団セーブを記録した。

まずは一軍定着へ”鈴木翔太”(2014年~)

2016年現在、18番を背負っているのは、2013年のドラフト1位、鈴木翔太選手だ。聖隷クリストファー高校から初のプロ野球選手として入団した鈴木翔太選手は、1年目、2年目と一軍では結果を残すことはできていない。高卒入団ということもあり、3年はファームで身体を作りながら一軍で戦える武器を磨く形となっている。
中日ドラゴンズは若手投手の育成に定評があるので、数年後にはエースとして一軍のマウンドで投げる鈴木翔太選手の姿を見ることができるかもしれない。背番号18がエースナンバーになるかは鈴木翔太選手にかかっている。

まとめ

中日ドラゴンズの18番の選手紹介はいかがだっただろうか。
星野仙一、今中慎二、山本昌といったエースたちは18番を背負っていないのだ。レジェンド山本昌が引退した翌年の新人に34番をつけさせるなど、あまり背番号を気にしない球団なのかもしれない。