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2632試合連続出場、MLBボルチモア・オリオールズの永久欠番選手

2017 6/13 12:41hiiragi
オリオールズ,選手
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Photo by Aspen Photo / Shutterstock.com

アメリカンリーグ東地区に所属するボルチモア・オリオールズをご存知だろうか。上原浩治投手がメジャーで初めて所属したチームで、最近ではポストシーズンにもよく進出している。ここでは、ボルチモア・オリオールズのプロフィールや永久欠番選手を紹介しよう。

永久欠番選手の加盟が転機

ボルチモア・オリオールズは、アメリカンリーグ東地区に所属するチームだ。1901年アメリカンリーグ発足とともにミルウォーキー・ブルワーズの名前で参加した。ボルチモア・オリオールズを名乗ったのは、1954年からだ。
最初のころはたまに2位や3位に顔を出すものの、6位以下が指定席だった。それでも1944年には1度リーグ優勝は経験している。転機となったのは1966年のフランク・ロビンソン選手の移籍からだった。いきなり三冠王に輝き、チームをリーグ優勝、ワールドシリーズ制覇へと導く。
以降ワールドシリーズ制覇が3回ある。地区優勝は9回、リーグ優勝が7回あり、2016年はワイルドカードゲームまでは進出した。

「背番号4」退場回数97回アール・ウィーバー監督

アール・ウィーバー監督は、1968年のシーズン途中にボルチモア・オリオールズの監督に就任する。フルシーズンとなった1969年には地区優勝、リーグ優勝を飾り、ワールドシリーズでは破れるが、これより3年連続でワールドシリーズに出場する。そして翌70年にはシンシナティ・レッズを破りワールドシリーズを制覇した。
通算17年に及ぶオリオールズの監督歴で、地区優勝が6回、そのうち4回はワールドシリーズまで駒を進め、ワールドシリーズ制覇は1度だった。とにかく退場の多い監督で、通算退場回数は97回、ワールドシリーズでも退場を経験している。

「背番号8」2632試合連続出場カル・リプケン選手

カル・リプケン選手は、1981年ボルチモア・オリオールズよりメジャーデビューを果たした。2年目となる1982年は28本塁打、93打点と結果を残し、最優秀新人賞に選出されている。1983年は211安打を記録し、打率.318、本塁打27、打点102で地区優勝に貢献、MVPに選出された。この年オリオールズは3度目のワールドシリーズ制覇に輝いている。
リプケン選手は、2001年までの21年間をオリオールズ一筋でプレーした。通算成績は3184安打、431本塁打、打率.276を残している。そして何よりもすごい記録が連続出場記録だ。メジャー2年目の1982年5月から1998年9月までの2632試合連続出場を成し遂げた。

「背番号20」移籍即三冠王でチームの転機にフランク・ロビンソン選手

フランク・ロビンソン選手は、1956年シンシナティ・レッズよりメジャーデビューを果たし、1966年にボルチモア・オリオールズに移籍する。1年目から大活躍で打率.316、本塁打49本、打点122点を挙げ、三冠王に輝いた。この三冠王は黒人選手として史上初めて、ロビンソン選手にしても、打撃3部門でのタイトル獲得は後にも先にも、この年だけだ。
キャリアハイは、本塁打49本、打点136点、打率.342だったが、本塁打以外はタイトルと結びつかなかった。1966年はMVPも獲得したが、レッズ時代の1961年にも獲得していて、両リーグMVP獲得は史上初の快挙だった。

「背番号33」3000本安打と500本塁打エディ・マレー選手

エディ・マレー選手は、1977年ボルチモア・オリオールズよりメジャーデビューを果たす。1年目から160試合に出場して打率.283、本塁打28本、打点88点の成績を残し、最優秀新人賞に選出された。1981年には本塁打22本、打点78点で2冠を獲得している。いつもより少ない数字での獲得だが、この年はストライキのため、試合数が少なかったせいだ。そして打撃3冠でのタイトル獲得は、この2つのみだ。
それでも、キャリア21年間の積み重ねが、3255安打、504本塁打と3000本安打で500本塁打以上の偉業を達成させた。目立たない記録では20年連続75打点以上、128犠打などがある。

まとめ

MLBアメリカンリーグ東地区に所属する、ボルチモア・オリオールズの略歴や永久欠番選手について紹介した。弱小チームの時代を経て、近年では強豪チームの多い東地区でも、上位に顔を出している。2016年は2位だったが、2017年は地区優勝を狙っている。