オールドファン垂涎の古豪対決
平成8年(1996年)の決勝は明治35年創部の松山商と、大正12年創部の熊本工という古豪対決だった。松山商は昭和44年決勝で太田幸司擁する三沢(青森)と延長18回引き分け再試合の末に優勝して以来、27年ぶりの大旗を狙う。
一方の熊本工は、後に“打撃の神様”と呼ばれる川上哲治がエースとして準優勝した昭和12年以来、59年ぶりの決勝戦だった。どちらが勝ってもオールドファンにはたまらない好カードは、球史に残る名勝負となった。
松山商が1点リードで迎えた9回裏2死走者なし。追い詰められた熊本工の1年生・澤村がレフトポール際に起死回生の同点本塁打を放った。松山商の先発・新田はマウンド上でがっくりとひざまずき、ショックを隠せなかった。
こうなると押せ押せだ。勢いに乗った熊本工は延長10回、先頭打者の二塁打を足掛かりに1死満塁のチャンスをつかむ。一人でも走者が生還すれば熊本工の初優勝が決まる場面。松山商の澤田監督はライトをチーム一の強肩、矢野に交代させた。矢野は全速力で走り、ライトの守備位置に向かった。
土壇場で間一髪タッチアウト
この時、直後に起こる劇的なシーンを誰が予想できただろう。熊本工の左打者・本多の糸を引くような打球がライト方向に飛ぶ。テレビ中継のアナウンサーは「行ったぁ。これは文句なし」と絶叫するほどの強烈な打球。しかし、高く上がったためライトからレフトに吹く、甲子園特有の浜風に押し戻された。
ライトに入ったばかりの矢野はやや後方から助走をつけて捕球すると、その勢いを失うことなくホームへ返球した。タッチアップした三塁走者の星子がホームへ走ると同時に、矢野の強肩から放たれた山なりのボールはグングンと捕手に向かって伸びていく。
ノーバウンドで白球が捕手のミットに収まったその瞬間、スライディングしてきた星子にミットが触れた。タッチが早いか、星子の足がホームに入ったのが早いか。両手を広げてセーフをアピールする星子の前で、球審は力強く右手を突き上げた。
アウト!
星子は背中から崩れ落ち、ガッツポーズしながらベンチへ戻った矢野は出迎えたナインと抱き合って喜んだ。まるで優勝したかのような光景だった。
流れを引き寄せた松山商が優勝
10回裏に「0」が入り、流れは完全に松山商に移った。11回表、矢野の二塁打を足掛かりに3点を奪い、勝負は決まった。熊本工に微笑みかけていた勝利の女神を、土壇場で振り向かせた、まさに奇跡のバックホームだった。
矢野は大学卒業後、地元テレビ局に就職。三塁走者だった星子は地元熊本で「たっちあっぷ」というバーを開店し、店内に自分が着ていたユニフォームと、矢野から贈られた松山商のユニフォームを展示しているという。