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甲子園、伝説の監督たち~甲子園の舞台で輝いた名監督を振り返る

2017 8/3 12:07cut
野球ボールとグローブ
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多くのプロを輩出した大阪桐蔭高の西谷浩一監督

毎年、大きな感動を与えてくれる春夏の甲子園。主役はもちろん選手であるが、その選手達を適切に配置し勝利に導くのは監督の役目だ。甲子園で名を残した名物監督には誰がいたのだろうか。今回は甲子園史において欠かすことのできない名物監督を紹介したい。
2017年、春のセンバツ甲子園で優勝を飾った大阪桐蔭高(大阪府)の監督は西谷浩一氏だ。西谷監督は現役時代は報徳学園高校でプレーし、関西大学でも主将を務めていた。母校である報徳学園高校のコーチを務めた後、1998年に大阪桐蔭高の監督へ就任。一時コーチとなっていたが甲子園へ春夏通算で13回出場。優勝5回を誇り甲子園史上に残る名監督として君臨している。
甲子園で勝利を収めることだけではなく、多くのプロ野球選手も輩出。中村剛也選手(西武)、平田良介選手(中日)、浅村栄斗選手(西武)、中田翔選手(日本ハム)、藤浪晋太郎選手(阪神)、森友哉選手(西武)といった球界を代表する選手を多く育て上げ信頼は熱い。
2016年春のセンバツ終了時点で春夏合わせて5度の優勝は歴代2位。また、夏の選手権大会を2008年、2012年、2014年と3回制覇しているのは史上最多タイ記録となる。2017年も春のセンバツを制しており、これからも大阪桐蔭高・西谷監督の勢いは続きそうだ。

「攻めダルマ」こと蔦文也監督

すでに鬼籍に入っているが、高校野球の歴史を語る上で徳島県・池田高の蔦文也監督を外すことはできない。蔦監督は徳島商業高、同志社大学、日本製鉄広畑、全徳島でプレーし1950年に東急フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)へ入団。1年のみではあるが投手として5試合に登板。0勝1敗、防御率11.70という記録をプロ野球の世界で残している。
東急を退団後に池田高の教師に赴任し、1952年から野球部の顧問となった。蔦監督が甲子園に初出場したのは、監督就任から19年経った1971年夏の選手権だ。この大会では2回戦敗退と結果を残すことができなかった。
池田高、そして蔦監督が全国的な知名度を得たのが1974年春のセンバツである。この年、池田高の部員はわずか11名。「さわやかイレブン」と命名され注目を浴びていた。負傷者が重なると試合放棄の可能性もある状況で、蔦監督はチームを準優勝に導いている。
その後、1979年夏の選手権で準優勝と結果を残したもののあと一歩優勝には手が届かなかった。その蔦監督が初めて優勝旗を手にしたのは1982年夏の選手権だ。当時、主流ではない筋力トレーニングで打線を強化。「やまびこ打線」と呼ばれるほどの強力打線を作り上げ、甲子園初優勝を飾った。翌1983年春のセンバツでも優勝に導き、夏春連覇を達成した。
蔦監督は強力打線を作り上げ、それまで高校野球界において、常識となっていた守り勝つ野球ではなく攻め勝つ野球を目指した。その姿は「攻めダルマ」と呼ばれるほどであった。2001年に亡くなった蔦監督ではあるが、2016年には「蔦監督」という映画が製作、上映されるなど、伝説の蔦監督の求心力高く、人々の記憶に残っている。

常勝PL学園を作り上げた中村順司監督

1980年にPL学園高(大阪府)の監督へ就任した中村順司監督。1981年春のセンバツで吉村禎章選手(元巨人)、若井基安選手(元ダイエー)選手らを擁し、就任から1年で優勝を果たす。夏の選手権には出場ができなかったものの、翌年1982年春のセンバツで優勝。前年に続き、春のセンバツ連覇を果たす。
1983年夏の選手権では「KKコンビ」こと清原和博選手(元オリックス)、桑田真澄選手(元巨人)が1年生ながら大活躍し、優勝。翌1984年春のセンバツ決勝で敗退するまで甲子園20連勝という快挙を達成している。1985年夏の選手権で2年ぶりの優勝を果たし1987年は春夏連覇。2017年春のセンバツ終了時点において、史上最多となる通算6度の甲子園優勝を果たした。また、清原選手、桑田選手を始めとした多くのプロ野球選手を輩出。自身が関わった「全ての年度」の卒業生からプロ入り選手を生み出している。
1998年春のセンバツ限りで勇退をしているが、今でも尚、その影響力は強い。

5打席連続敬遠を実行した馬淵史郎監督

高知県の強豪である明徳義塾高を率いるのが馬淵史郎監督だ。その名が全国に知れ渡ったのは、社会的現象にもなった1992年夏の選手権における「松井秀喜選手(星稜高)の5打席連続敬遠」だ。
この大会でナンバーワンスラッガーとして、呼び声が高かった松井選手率いる星稜高(石川県)と対戦した明徳義塾高。馬淵監督は勝利のために松井選手を全打席敬遠することを指示する。一塁が空いている場面での敬遠は作戦として捉えられていたが、二死走者なしの場面でも敬遠。スタンド側からは罵声、そしてメガホンなどが投げ入れられる場内は騒然となった。
この試合で、松井選手を5打席連続で敬遠し勝利は収めたものの、馬淵監督と明徳義塾高は「ヒール」の烙印を押されることになった。高校野球史に残る1992年の「松井選手敬遠」から10年後、2002年夏の選手権で悲願の甲子園初優勝を果たしている。
また、2017年春のセンバツでは注目のスラッガー清宮幸太郎選手率いる早稲田実業と対戦。報道陣からは「また全打席敬遠するのか?」と言った質問が相次いだ。馬淵監督は質問に対し「状況によってはありえる。だが、全打席敬遠はない。松井に失礼。」とコメントし、新聞などのメディアを賑わせた。

作新学院高を率い33歳で全国制覇を成し遂げた小針崇宏監督

2016年夏の選手権を制した作新学院高(栃木県)を率いた小針崇宏監督。現役時代は同校で岡田幸文選手(ロッテ)と1番、2番を組むなど巧打者として名を馳せていた。若干23歳で監督に就任し、10年で全国制覇まで導いた若き監督でもある。
高校野球においては4番打者であっても、走者を進めるために犠打を行うことがある。それほど、走者を進めることを大切にするのだ。しかし、小針監督は攻める野球を念頭に置いており、優勝を果たした同大会で犠打はわずか3つ(5試合)。常に、攻める姿勢を貫いた証拠でもある。各選手が状況に応じた打撃を行える指導を行い、犠打一辺倒の野球から脱却したのだ。チームの中心であったエースの今井達也選手(西武)が引退後も秋の関東大会で優勝を果たし、2017年春のセンバツにもチームを導くなど強さを維持している。
2017年現在で34歳という若さもあり、数十年に渡って高校野球界を引っ張る可能性もある監督の一人だ。今後も注目していきたい。 高校野球の監督はプロ野球と違い1年、2年で退任することは少なく、学校という性質から、長期に渡り指導をすることも多い。
名門校になればなるほど、一人の監督が長きに渡り従事していることもある。今後も常勝チームを作り上げる新たな名監督の出現に期待したい。