「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

1990年代後半の甲子園を振り返る

2017 6/28 09:44cut
baseball high school
このエントリーをはてなブックマークに追加

1995年:初出場初優勝!観音寺中央高校

1995年春のセンバツは1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が起こるなど、世間はものものしい雰囲気だったが予定通りに大会は開催された。その大会では初出場の観音寺中央高校が優勝を果たす。この大会ではPL学園高校の福留孝介選手が注目を浴び1回戦で本塁打を放つ活躍を見せたが、準優勝した銚子商業高校に打撃戦の末に7-10で敗れ初戦敗退となってしまった。

夏の選手権では再び福留孝介選手が注目を浴びており自身も2本塁打を放つなど準々決勝まで進出する。しかし、強豪智弁学園高校に6-8で惜敗。甲子園制覇を果たすことはできなかった。この大会を制したのは東東京の強豪校・前田三夫監督率いる帝京高校だった。決勝では山本省吾選手(元ソフトバンク他)擁する星稜高校相手に3-1と逆転勝利。この勝利で6年ぶり2回目となる優勝を果たした。

1996年:奇跡のバックホーム

1996年春のセンバツでは中国地方の初出場校が躍進する。岡山県の岡山城東高校、広島県の高陽東高校がともに初出場で準決勝へ進出。両チームとも準決勝で敗退してしまうが接戦となり、あと一歩で決勝というところだった。決勝は鹿児島実業高校と智弁和歌山高校が対戦し、鹿児島実業高校が6-3と競り合いを制し初の優勝を飾っている。

この大会の鹿児島実業のエース下窪陽介選手(元横浜)は日本大学、日本通運を経て野手として横浜ベイスターズへ入団を果たす。智弁和歌山高校のバッテリーは高塚信幸選手(元近鉄)、中谷仁選手(元楽天他)となっており、両チームともプロ入り選手が出る強豪の対戦だったのだ。

夏の選手権は決勝における「奇跡のバックホーム」が最大のハイライトだ。松山商業高校と熊本工業高校で行われた決勝戦は、3-3のまま延長戦に突入。10回裏に熊本工業高校が1死三塁とサヨナラのチャンスを作る。松山商業高校は満塁策を選択し二者連続敬遠。さらに、右翼の守備を交代し万全の体制でピンチに立ち向かう。次打者である本田大介選手の大きなあたりは代わったばかりの右翼・矢野勝嗣選手の元へ。飛距離も十分にありタッチアップでサヨナラが確実と思われたが、矢野選手のバックホームで本塁クロスプレーの結果判定はアウト。

サヨナラのチャンスは潰(つい)え、続く11回に松山商業高校が3点を勝ち越し優勝を決めたのだ。甲子園の名場面でも取り上げられることが多いこの場面は1996年のハイライトでもあった。

1997年:石川雅規選手vs.和田毅選手

1997年春のセンバツは長崎伸一(元ロッテ)選手率いる奈良県の天理高校が16回目の出場で初優勝を果たした。決勝では26回目の出場となった愛知県の中京大中京高校と対戦し、4-1で完投勝利を果たしている。この大会からボール、ストライクのコール順が現在と同じように「ボール、ストライク」となった。

夏の選手権は前年春のセンバツで準優勝を果たしていた智弁和歌山高校だ。前年の準優勝バッテリーでもあった高塚選手、中谷選手が最上級生となりチームを優勝に導いた。特に中谷選手は主将の重責も負いながら打率.563をマークしプロ注目となり、同年ドラフト会議において阪神タイガースから1位で指名され入団に至る。

また、1回戦で石川雅規(いしかわまさのり)選手(現ヤクルト)率いる秋田商業高校と和田毅(わだつよし)選手(現ソフトバンク)率いる浜田高校が対戦する。両投手の投げ合いとなったこの一戦は3-1で浜田商業リードで迎えた9回裏に秋田商業が3点を奪い逆転サヨナラ勝ちを収めた。球界を代表する左腕が甲子園の一回戦でサヨナラの死闘を演じていたのだ。

1998年:松坂大輔選手一色の一年

1998年は春夏ともに松坂大輔選手率いる横浜高校一色の年だった。前年の秋季神奈川県大会、関東大会、明治神宮大会を制し春のセンバツに乗り込んだ横浜高校。春のセンバツでは初戦の報徳学園高校戦を6-2で切り抜けると、次戦で村田修一選手(現巨人)率いる東福岡高校と対戦する。

村田選手も高校時代は投手として活躍しており、松坂選手と投げ合いを演じる。しかし、6回に1点を失うと7回、8回にも続けて失点し、横浜高校に0-3で屈してしまった。村田選手は後に「大輔がいたから投手をあきらめた」とも語っていることからも松坂選手の凄さがよくわかる。その後も松坂選手は決勝で久保康友選手(現DeNA)率いる関大一高と対戦。3-0で完封勝利を収め見事に春のセンバツを制した。

夏の選手権では「打倒松坂大輔」に全国の高校球児が燃え上がるが、横浜高校はひるむことがなかった。歴史に残るPL学園高校との延長17回の死闘を制し準決勝では6点差を8回、9回で逆転。まさに漫画のような展開で決勝に進んだのだ。決勝では京都成章高校(せいしょう)をノーヒットノーランで下し春夏連覇を達成。その後も国体を制し、公式戦44連勝という圧倒的な成績を横浜高校は残した。まさに1998年は松坂選手と横浜高校の一年だった。

1999年:沖縄県勢が悲願の初優勝!

1999年春のセンバツは沖縄尚学高校が春夏の甲子園を通じて初めて沖縄県勢として優勝を果たす。また、この大会では前年に春夏連覇を果たした横浜高校の3季連続優勝にも注目が集まった。しかし、初戦で前年夏の選手権で延長17回の死闘を演じたPL学園高校と再戦し、5-6で敗戦し1回戦で夢は終わってしまう。

夏の選手権では桐生第一高校が正田樹選手(元日本ハム他)を擁し群馬健在として初めての優勝を果たした。正田選手は185センチの長身からストレート、カーブを駆使し優勝したことでプロからの評価も上がり、同年のドラフト1位で日本ハムファイターズに入団を果たす。
2000年に一軍デビューを果たした正田選手だが、2002年に才能が開花し新人王を獲得する活躍を見せているのだ。また、鳥谷敬選手(現阪神)も聖望学園高校で出場しており背番号「6」ながらマウンドにも登り登板を果たしている。

1990年代後半はやはり、松坂選手一色の甲子園だった。この盛り上がりは清原和博選手、桑田真澄選手のPL学園時代を彷彿させるものがあった。この後の盛り上がりは2006年に斎藤佑樹選手の「ハンカチ王子」フィーバーだろうか。甲子園が一つの社会現象を作り上げた1990年代の甲子園と言えそうだ。