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1990年代前半の甲子園を振り返る

2017 6/28 09:44cut
baseball high school
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1990年:イチロー選手が登場!

春のセンバツでは初出場の愛媛県代表・新田高校が旋風を巻き起こす。初戦で前橋商業高校を9-1で破ると、続く日大藤沢高校戦では1-4で9回裏に最後の攻撃を迎える。1点を返し続く4番の宮下典明選手がサヨナラ3点本塁打を放ち、5-4と逆転サヨナラ勝利を収めたのだ。サヨナラ本塁打を放った宮下選手は、後に近鉄バファローズへと入団している。
この勝利で勢いに乗った新田高校は高松商業高校も破り、準決勝では大阪の強豪北陽高校と対戦する。北陽高校が3-1と2点リードで迎えた8回裏に、2回戦で逆転サヨナラ3点本塁打を放った宮下選手が同点本塁打を放つ。そのまま、試合へ延長に入り17回裏に新田高校の池田幸徳選手がサヨナラ本塁打を放ち、4-3で北陽高校を下し決勝へ進出したのだ。決勝では近大付属高校に2-5で敗れるが「ミラクル新田」の名前はファンの脳裏に刻まれた。
夏の選手権大会には後の愛工大名電高校のイチロー選手こと鈴木一朗選手(現マーリンズ)が出場する。1回戦で南竜次(元日本ハム)選手擁する天理高校に1-6で敗れ、初めての甲子園は初戦敗退に終わってしまう。その天理高校は決勝で沖縄水産高校に1-0の僅差で競り勝ち、4年ぶり2回目となる全国制覇を達成した。

1991年:大阪桐蔭が初出場初優勝

この年の春のセンバツには、再び愛工大名電高校が出場しイチロー選手は投手として先発マウンドに登る。松商学園高校相手に9回3失点と好投を見せたが、試合には2-3で敗れてしまい、1990年夏の大会に続いて2大会連続で初戦敗退となってしまうのだ。
松商学園高校は決勝まで勝ち進むが広陵高校に敗れ準優勝に終わっている。この大会で優勝した広陵高校には二岡智宏選手(元日本ハム他)の兄である二岡聡選手も出場していた。
夏の選手権では近年、全国的な強豪チームとして知られる大阪桐蔭高校が初出場し、初優勝を遂げたのだ。現在の強豪校も26年前は初出場初優勝のダークホースだった。この大会では怪物スラッガーである星稜高校の松井秀喜選手が2年生ながら4番として出場を果たしている。竜ケ崎一高戦では甲子園初本塁打を放った。

1992年:松井秀喜選手の5打席連続敬遠

この年の春のセンバツは超高校級スラッガーである星稜高校の松井秀喜選手が一番の注目を集めていた。注目の松井選手は開会式直後の第1試合に登場し、岩手県の宮古高校相手に2本塁打を放つ絶好のスタートを切った。2戦目となった東京の堀越高校戦でも、2試合連続となる本塁打を放ち実力を見せつけた。
星稜高校は準々決勝で天理高校に敗れてしまうが、松井選手の本塁打はファンの脳裏に焼き付く。この大会は東京の帝京高校がエース三澤興一選手(元巨人他)を擁し、春のセンバツ初優勝をとげている。
夏の選手権では一つの社会的現象が起きた。それは「松井秀喜選手5打席連続敬遠」だ。初戦を11-0と大勝し2回戦に臨んだ松井選手と星稜高校は、高知県の明徳義塾高校と対戦する。明徳義塾高校の馬淵史郎監督は、松井秀喜選手を全打席敬遠したのだ。この敬遠は社会的な問題としても取り上げられ、スタンドからはメガホンが投げ込まれるなど騒然となった。
その結果、星稜高校は2-3で敗れ、松井選手の甲子園は終わったのだ。明徳義塾高校はこの大会で優勝を果たすことはできず、初優勝を遂げたのは10年後となる2002年のことだ。その際に松井選手は「おめでとうございます」とのコメントを馬淵監督に送り器の大きさを見せてくれた。
また、この大会で優勝を果たしたのは福岡県代表の西日本短大附属高校だった。チームを引いた浜崎満重監督は社会人野球の新日本製鐵堺でも監督を務め、野茂英雄選手(元ドジャース他)を育てた名将でもあり高校野球の世界でも実績を残したのだ。

1993年:雨天で明暗を分けた夏の選手権

春のセンバツ出場校決定当日に偽電話が関東地区の高校へかけられる。これは実際は出場とならなかった高校へ出場決定の案内を入れる、悪質ないたずらだった。喜びから一転、落選の通知を受けた高校も存在している。中には主将の胴上げまで行っていたにもかかわらず、後に出場できていなかった高校もあるほどだ。波乱で始まった大会は上宮高校が7回目の出場で初優勝を飾った。
夏の選手権大会では育英高校が5回目の出場で初優勝を飾った。雨天が多く降雨コールドゲーム、降雨ノーゲームも発生するなど悪条件の中で大会は催される。
その中で悔しい思いをしたのは鹿児島商業工業高校だ。3回戦の常総学院高校戦で4-0とリードしながら4回表降雨ノーゲームで再試合となってしまう。その再試合では常総学院高校が逆に1-0で勝利を収めるのだ。このとき、常総学院高校は金子誠選手(元日本ハム)が主将として出場していた。

1994年:決勝戦9回表の満塁本塁打

1994年春のセンバツからベンチ入り人数が15名から16名へと1名増加になった。この大会では金沢高校の中野真博選手が、1回戦の江の川高校戦でセンバツ甲子園史上2度目の完全試合を達成した。この完全試合以降、2高校野球で完全試合は達成されていない(2017年6月現在)。決勝では智弁和歌山高校が常総学院高校を逆転で下し、2回目の出場で初優勝を飾っている。
夏の選手権では「ミラクル佐賀商」こと佐賀商業高校が戦前の予想を覆し初優勝を遂げた。春夏を通じて佐賀県勢として初の決勝進出となった佐賀商業高校は、鹿児島県代表の樟南高校と接戦を演じる。
3-4と1点ビハインドで迎えた8回表に1点を返し同点に追いつくと、続く9回表には2死満塁から値千金の満塁本塁打を放ち、8-4と勝ち越しに成功。その裏を0点に抑え見事に初優勝を飾ったのだ。決勝戦での満塁本塁打は史上初のことでもあった。その13年後に佐賀北高校が、同じく決勝で広陵高校を相手に逆転満塁本塁打を放ち優勝を飾ったのも何かの縁かもしれない。
1990年代前半の甲子園は松井秀喜選手の「5打席連続敬遠」が最大のトピックだろう。甲子園の出来事で社会的現象になり、25年以上経過した現在でも語り継がれていることは珍しいことといえる。また、この年代に甲子園で活躍したプロ野球選手の多くはすでに現役を引退しており、2017年現在で未だに現役の選手はイチロー選手を始め数えるほどになっている。