全国でも屈指の伝統を誇る市岡高校野球部
大阪府立市岡高校は、1901年に創立された。野球部の創部はその5年後の1906年。すでに110年以上の歴史を誇る、伝統ある野球部だ。
1915年の第1回大会から出場しており、以降毎年欠かさず出場している皆勤校。第1回大会から皆勤出場している高校は意外に少なく、全国では15校、大阪では市岡高校しかない。全国大会へは翌1916年の第2回大会に出場しており、このときは準優勝している。
その後も春の選抜に11度、夏の選手権には10度出場しており、春夏合わせて21度の甲子園出場。これはPL学園、大体大浪商に次いで大阪府内で3位の記録だ。2013年には夏の大阪大会で通算200勝も達成。積み重ねてきた実績は、府内どころか全国でもトップクラスだろう。
大阪の公立として最後に甲子園に出場
最後に甲子園に出場したのは1995年春。前年の秋季大阪大会で準優勝し、近畿大会で1勝を挙げてPL学園ととも選抜された。甲子園では銚子商業に延長10回の熱戦を繰り広げたものの、最後は投手が力尽きて5-8で敗れた。
同年夏の大阪大会では、決勝まで進出したもののPL学園に敗れて準優勝。惜しくも春夏連続出場とはならなかった。ちなみに、この時に決勝打を放ったのが、当時PL学園の4番で、現在は阪神で活躍する福留孝介だ。
また、大阪の公立高校として最後に甲子園へ出場したのも市岡高校だ。夏の大会だけに限ると、中村紀洋が在籍していた渋谷(しぶたに)高校が1990年に出場したのが最後だが、春夏を合わせるとこの95年選抜の市岡高校が最後。強豪ひしめく大阪では難しいかもしれないが、やはり彼らがもう1度甲子園の土を踏むところを見てみたいものだ。
いまだに残る選抜大会記録
ちなみに、市岡高校は全国大会で珍しい記録を残した学校でもある。まだ旧制の市岡中学校時代に出場した1924年春の選抜大会。横浜商業との試合で、21-13という大打撃戦を繰り広げたのだ。両軍合わせて34得点は、いまだに選抜大会記録となっている。
しかも、この試合は再試合だったからまた驚く。1度目の試合では延長14回、13-13で引き分けており、再試合の結果、両軍合計の最多得点記録が生まれた。2試合で両軍が挙げた合計得点は60。こんな記録は後にも先にもない。
4人の野球殿堂入りを輩出
市岡高校は、これまでプロ野球選手を9人ほど輩出している。さらに、市岡高校が素晴らしいのは、同校OBがプロ野球界だけでなくアマチュア球界にも大きな影響を与えたことだ。
たとえば、佐伯達夫さんはプロ入りこそしていないが、高野連の創設に大きく関わり、野球殿堂入りしている。他にも都市対抗野球で監督として輝かしい実績を残した田中勝男さん、大学・社会人球界の発展に大いに貢献した伊達正男さん、朝日新聞社の社長、そして全日本マチュア野球連盟会長も務めた広岡知男さんと、合わせて4人のOBが野球殿堂入りを果たしている(広岡さんは先述した横浜商業戦に3番ショートで出場)。
伝統が詰まった三本戦
市岡高校野球部をご覧になったことがある方ならご存知だろうが、ユニフォームの中でも、特に帽子とヘルメットが特徴的だ。3本のラインが入ったデザインは、一目見ただけで印象に残る。
この「三本線」には大きな意味がある。元々、旧制大阪府第七中学校として創設され、名前の通り大阪府では7番目、そして大阪市では北野、天王寺に次ぐ3番目の歴史を誇っている。この三本線には市内第三の学校であるとの意味が込められているのだ。これは帽子だけでなく、校章や校旗にも使用されている。
三本線には市岡高校のみならず、高校野球の、そして大阪の歴史が詰まっているのだ。甲子園歴史館にもこの帽子が寄贈されているほどで、市岡高校が高校野球史上で非常に大きな役割を果たしてきたということだろう。
市岡高校には専用グランドもなく、決して練習環境には恵まれていない(グラウンドは他の部活動と交代しながら使用)。そんな環境で残してきた多大な功績は、高校球界だけでなく、アマチュア球界全体にも大きな影響を与えている。
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