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初代センバツ王者、史上初の春夏優勝 高松商野球部の歴史

2019 8/8 19:00SPAIA編集部
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名門としての輝かしい歴史

香川県立高松商業高等学校は、1900年(明治33年)創立の歴史ある高校だ。野球部の創設は1909年(明治42年)と、名門と呼ぶにふさわしい歴史を持っている。

春の甲子園には1924年の第1回大会から計27回の出場を数え、決勝進出が5度、そのうち、第1回大会と1960年の第32回大会で、優勝を果たしている。夏の甲子園には20回の出場があり、1925年の第11回大会と、1927年の第13回大会で優勝している。その他にも、1958年第13回国民体育大会、2015年の第46回明治神宮大会など、全国規模の大会で優勝実績がある。

第1回から6連続出場の春の甲子園

出場27回を誇る春の甲子園には、第1回大会から第6回大会までを6連続で出場している。これだけでもすごい記録だが、成績も申し分ない。1回戦で敗れたのは1度だけで、ベスト8が2回、ベスト4、準優勝、優勝がそれぞれ1回となっている。

その間、夏の甲子園にも3度出場して1925年の11回大会と1927年の13回大会では優勝、1929年の15回大会ではベスト8と、強豪ぶりをいかんなく発揮、高商(たかしょう)の名を全国に知らしめた。

史上初の春夏優勝校

1925年と1927年の夏の甲子園全国制覇に貢献したのが、プロ野球阪急(現オリックス)の初代主将を務めた宮武三郎と、読売巨人軍で監督を務めた水原茂だ。

特に1925年の優勝は、夏の優勝旗を初めて本州以外に持ち出すとともに、春と夏の甲子園で優勝した、初めての学校になった。その後2人は共に慶応大学に進み、プロ野球の道に進む。

宮武さんは阪急で活躍し、1965年には野球殿堂入りを果たした。水原さんは巨人に入団し選手として活躍した後、監督に就任、一時代を築き1977年に野球殿堂入りを果たしている。

甲子園初、優勝を決めたサヨナラホームラン

春の甲子園では、連続出場が途絶えた後も出場はするものの、これといった成績は残せなかった。そんな中迎えた1960年第32回大会では、エースに2年生松下利夫を擁し、14回目のセンバツを順調に勝ち上がる。決勝で当たったのは中国代表・鳥取県の米子東だった。

両校エースのプライドが激突する投手戦となった試合は1対1のまま9回裏に突入。延長戦かと思われたが、高松商の主将を務める山口富士雄の一振りが、左翼ラッキーゾーンへすいこまれた。これがサヨナラホームランとなり、高松商の劇的な優勝を飾った。

この大会のホームランはこの1本だけ、優勝サヨナラホームランは、甲子園史上初めてという記録的な1打となった。山口はこの後、阪急に入団している。

惜しくも準優勝に終わった2016年春

春の甲子園26回目の出場は、20年ぶりとなった2016年の第88回大会。前年の秋季四国大会を制し、明治神宮大会でも優勝、満を持して大会に臨んだ。

1回戦は東海代表三重県のいなべ総合学園に、延長戦の末7-6でサヨナラ勝ちを収めると、準決勝の九州代表熊本県の秀岳館にも延長11回4-2で勝利。決勝で近畿代表奈良県の智弁学園と対戦した。

この試合も1960年第32回大会と同様、息詰まる投手戦となり、1-1のまま延長戦にもつれ込んだ。そして延長11回裏、1点を奪われ、またもサヨナラ負け。栄冠には届かなかったものの、56年前を彷彿とさせる白熱の戦いを繰り広げた。

92年ぶりの大旗へ、初戦は鶴岡東

101回目の夏、高松商は初戦で山形代表の鶴岡東と対戦する。四国勢は2002年の高知・明徳義塾を最後に優勝から遠ざかっており、香川県勢では1995年春の観音寺中央、夏に限れば1927年の高松商までさかのぼる。92年ぶりの深紅の大優勝旗を目指す戦いが始まる。