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野茂英雄選手だけじゃない!1989年のドラフトを振り返る

2017 6/28 09:44cut
baseball,bakk
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野茂英雄選手に史上最多の8球団が入札!

1989年のドラフト会議では大きな変化があった。前年までと変わりドラフト指名選手がモニターに表示されるようになったのだ。これは、ドラフト会議における大きな革命であり変化でもあった。その記念すべき初めてのモニター使用によるドラフト会議で画面を埋め尽くしたのは、新日本製鐵堺に所属する野茂英雄選手だった。
野茂選手は大阪府立成城工業高校から新日本製鐵堺へ進み1988年のソウルオリンピックに出場。古田敦也選手、野村謙二郎選手といった後に名球会入りを果たすメンバー達とともに日本代表として戦い銀メダルを獲得する。
当時から野茂選手は独特の身体を捻って投げる「トルネード投法」から剛速球、フォークボールを繰り出し三振を量産。ドラフト会議における目玉として取り上げられていた。注目は清原和博選手(当時西武)、岡田彰布選手(当時阪神)の6球団競合を上回るかに注目が集まっていたのだ。
このドラフトで野茂選手は近鉄バファローズ、大洋ホエールズ、阪神タイガース、ヤクルトスワローズ、福岡ダイエーホークス、オリックス・ブレーブス、ロッテオリオンズ、日本ハムファイターズの8球団が入札。岡田選手、清原選手を超える評価となったのだ。抽選の結果近鉄が交渉権を引き当て野茂選手は入団に至った。
翌1990年のドラフトで小池秀郎選手が同じく8球団競合に並ぶが2016年ドラフト終了時点で史上最多の競合となっている。

1位指名選手は各球団ともに大成功

野茂選手に8球団が入札したことが一番のニュースになる1989年のドラフトだが、この年はそのほかの1位指名選手も結果的に大豊作となっている。

【1位指名選手】
読売ジャイアンツ:大森剛選手(慶応大)
広島東洋カープ:佐々岡真司選手(NTT中国)
中日ドラゴンズ:与田剛選手(NTT東日本)
ヤクルトスワローズ:西村龍次選手(ヤマハ)
阪神タイガース:葛西稔選手(法政大)
横浜大洋ホエールズ:佐々木主浩選手(東北福祉大)
近鉄バファローズ:野茂英雄選手(新日本製鐵堺)
オリックス・ブレーブス:佐藤和弘選手(熊谷組)
ロッテオリオンズ:小宮山悟選手(早稲田大)
西武ライオンズ:潮崎哲也選手(松下電器)
福岡ダイエーホークス:元木大介選手(上宮高)
日本ハムファイターズ:酒井光次郎選手(近畿大)

「大魔神」と呼ばれ名球会入りを果たした佐々木主浩選手。広島で先発、抑えとして活躍し通算138勝106Sを達成した佐々岡真司選手。シンカーで一世を風靡した潮崎哲也選手。セ・リーグで新人王に輝き引退後も2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でコーチとして優勝に貢献した与田剛選手。ロッテ、メッツ、横浜で活躍した「投げる精密機械」こと小宮山悟選手。元木大介選手は入団拒否したがその他の11名は一定の成績を残したと言えるだろう。

前田智徳、新庄剛志らが下位指名からプロ入りへ

ドラフト1位以外の指名選手でも後の大選手が多く指名された年でもあった。

ヤクルトスワローズ・2位:古田敦也選手
日本ハムファイターズ・2位:岩本勉選手
近鉄バファローズ・3位:石井浩郎選手
広島東洋カープ・4位:前田智徳選手
阪神タイガース・5位:新庄剛選手

「めがねの捕手は大成しない」と言われながらも2年目に首位打者を獲得し1990年代ヤクルトの黄金時代を支えた古田敦也選手。日本ハムのエースとして活躍し「まいど!」のかけ声で人気を博した岩本勉選手。近鉄、巨人などでスラッガーとして活躍した石井浩郎選手。アキレス腱断裂の大けがを負いながらも名球会入りを達成しイチロー選手の憧れでもあった前田智徳選手。阪神からメジャーリーグへ移籍しワールドシリーズにも出場し日本ハムでもチームに貢献した新庄剛選手。多くの個性的な選手がこのドラフトで指名されプロ入りを果たしていたのだ。

ドラフト外にも意外な選手が!

2017年現在は認められていないが、1989年はドラフト外入団が認められていた。ドラフトで指名されなかった選手と交渉し入団をさせる制度だ。ドラフト会議が始まった当初の1960年代後半は入団拒否をする選手も多かったために戦力の補充の意味合いが込められていた。
1989年のドラフト外入団では4球団で長きにわたり現役生活を送ってきた野口寿浩選手がヤクルト、後のメジャーリーガーである柏田貴史選手が大洋にドラフト外で入団に至っている。また、広島に入団した秋村謙宏選手は現役を引退後に審判員となり通算1500試合以上の出場を果たしている。
現在は認められていないドラフト外の制度だがこのように意外な選手も入団に至っているのだ。

指名拒否は元木大介選手ら2人

1989年のドラフトで指名されたものの拒否された選手は2名いる。1人目が福岡ダイエーホークスから1位指名された上宮高校出身の元木大介選手だ。元木選手は甲子園で通算6本塁打を放ったスラッガーで女性人気も高く巨人入りを熱望していた。
しかし、ドラフト1位で巨人が指名したのは慶応大学の大森剛選手だった。巨人の2位指名がくる前に野茂選手の抽選を外したダイエーが元木選手を指名。巨人入りはかなわなくなってしまった。
元木選手は翌年にハワイへ野球留学を行い1年間浪人を行う。その甲斐もあり、翌1990年のドラフトで巨人から1位指名を受け入団を果たすのだ。その後は2005年まで現役を続け1205試合に出場するなどの活躍を見せている。
ヤクルトがドラフト3位で指名した立教大学の黒須陽一郎氏も入団を拒否した。黒須氏は立教大学で主将を務め日米大学野球にも選出されるほどの実力の持ち主だった。当時ヤクルトの監督であった野村克也監督は黒須氏に高い評価を与えていなかったが、黒須氏のプロ入りに対する思いを聞いていた片岡宏雄スカウトは大学の後輩と言うこともあり獲得に動く。
しかし、ドラフト指名後に黒須氏は一転して入団を拒否。この一件以来片岡スカウトは立教大学のOB会を退会しヤクルトも立教大学の選手をドラフト指名していない。現在、片岡スカウトはヤクルトを離れているが今後、ヤクルトが立教大学の選手を指名するか注目が集まる。
ドラフト会議は甲子園のスターやアマチュア時代に大きな活躍をした選手に注目が集まる。しかし、下位指名の選手からも有力な選手は生まれる。それを見せてくれた1989年のドラフト会議かもしれない。