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今やパラリンピックの主要競技となった車椅子マラソンの歴史を探る

2017 7/10 10:25TANANA
車椅子マラソン
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Photo by a katz/Shutterstock.com

1984年よりパラリンピックの正式種目となった車椅子マラソンだが、大会自体はそれより前に行われていた。 障がい者がアスリートとして活躍する道を切り開いたこの競技はどのように生まれ、また普及していったのか。 今回はそれを探っていきたい。

車椅子マラソンのパイオニアとなった一人の青年

車椅子マラソン自体は1950年代から存在していたものの、正式な競技として認知されたのは1975年にアメリカで開かれたボストンマラソンからだ。当時24歳だったアメリカ人のボブ・ホール氏が、健常者しか参加できなかったボストンマラソンに、車椅子での参加もOKになるよう訴訟を起こし、それが認められてスタートラインにたったのだ。
走破タイムは2時間58分と平凡なものだったが、障がい者でも一流のマラソン大会に参加できるということを証明した意義は大きく、以後多くのマラソン大会において障がい者も参加することを可能とした画期的な出来事だった。

車椅子マラソンその後の普及

1975年のボストンマラソンをきっかけに、世界中の大会で車椅子マラソンが開催されるようになった。健常者と一緒に走る大会と並行する形で、車椅子ランナー単独の大会も普及していくことになったのだ。障がいの程度によってクラス分けが行われるなどのレース環境の整備も行われ、競技としての完成度も高まっていった。
男子のみならず、女子も黎明期からの積極的参加が目立ち、障がい者アスリートとしての知名度を世界的に広める役割を果たしていくことになった。

日本における車椅子マラソン普及の歴史

一方、日本国内においては、車椅子に乗るマラソンランナーが長距離を安全に走り切れるかという懸念があったため、本格的な大会の導入にやや時間を要した。
しかし、1970年代後半から1980年代にかけて、国際大会における健常者マラソンにおいて瀬古利彦氏や宗茂氏、宋猛氏の兄弟ら日本人選手が活躍したのを受け、障がい者の間でも「マラソンを走ってみたい」という機運が高まる。そして、1981年の大分国際車椅子マラソンにおいて、国内初の車椅子ランナー単独での大会が開催されたのだ。

その後の日本国内における車椅子マラソンの普及、発展

1981年の大分国際車椅子マラソンを皮切りに、日本国内の至る所で大会が開催されるようになった。全国的普及が結果的にアスリートたちの成長にもつながっていき、大会を何連覇もする選手も現れ、世界で戦える土壌ができあがっていったのだ。
逆に、世界で活躍するトップアスリートも日本国内の大会に参加するようになり、お互い切磋琢磨することで、パラリンピックなどの主要な大会でよりレベルの高い攻防が繰り広げられるようになった。

競技のレベルアップに欠かせなかった競技用車椅子の発展

車椅子マラソンが正式な種目として認知されると同時に、アスリートの大事な道具である車椅子の方も発展を遂げてきた。黎明期にはアルミ素材で4輪のものだったが、よりスピード感が増すようにさまざまな改良が加えられていったのだ。
1990年代に入ると3輪仕様に変わり、素材もカーボン製になって軽量化が図られる。さらに2015年になると車輪がカーボンディスクの素材に変わり、空気抵抗が抑えられてより速いタイムが出るようになった。
走破タイムも初期は2時間台が平均タイムだったが、1980年代になると2時間を切るようになり、2000年代には1時間10分台と、健常者のマラソン大会を超える記録が生み出されるようになったのだ。

まとめ

今でこそ華やかな競技に見える車椅子マラソンも、初期は試行錯誤の連続で、メジャーなスポーツに昇華するまでの過程が非常に複雑だったことが垣間見えた。 今後のレースのレベルアップ、それに伴う感動の展開が非常に楽しみだ。