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陸上日本女子マラソンにおける草分け的存在!有森裕子選手の功績とは

2017 1/30 21:11
有森裕子,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

今や世界でも戦っていける日本の女子マラソンだが、いったいいつから世界トップレベルになったのだろうか?その経緯や歴史を知っておけば、マラソン観戦やマラソンの話題になっても楽しむことができるかもしれない。今回は、女子マラソンの草分けともいえる有森裕子選手について紹介する。

有森裕子選手とは

有森裕子選手というと、日本人では知らない人はいない陸上女子マラソン界におけるスター的存在だ。
女子におけるプロマラソンランナーの草分けとして知られる彼女は、1966年12月17日に岡山県岡山市で生まれた。中学生時代はバスケ部に所属しており、走ることには自信があったという。高校では陸上部に所属していたが、当時はまだ才能を開花させていなかった。高校時代は、当時長距離走のスター選手であった増田明美選手にあこがれていたという記録がある。

初マラソンで日本記録を樹立

怪我の影響もあり、大学でもあまり成果が出なかったものの、卒業後リクルート社に入社し、小出監督に熱意をアピールすることで陸上部への入部を果たす。
1990年に開催された大阪国際女子マラソンで才能の開花を果たす。有森選手は初出場ながらも女子マラソン日本最高記録を樹立し、6位入賞を果たす。さらに翌年にも出場し、そこで日本最高記録を打ち立てた。ここから、日本中の関係者が有森選手に注目をするようになったのだ。

オリンピック代表選考騒動と確執

1991年の世界陸上競技選手権でマラソン選手として出場し、メダルは取れなかったものの4位の好成績を残した。この時点で世間の見方としては、有森選手はバルセロナオリンピックの代表になるかもしれないと感じていた。
だが、怪我によりその後の選考会に出場できなかった。オリンピック代表選考最後の3人目を松野明美選手と争うこととなり、見事代表を勝ち取ったもののこの選考については騒動ととなり、松野選手との20年物の確執が生まれることとなった。

二度のオリンピック出場

色々と騒動のあった有森選手だが、出場したバルセロナオリンピックでは、8秒差で敗れてしまったものの見事銀メダルを獲得した。女子選手としては、64年ぶりの快挙だった。
バルセロナ後は、怪我やスランプに悩まされるものの、1995年の北海道マラソンで見事優勝し、アトランタオリンピックの代表になった。アトランタオリンピックでも銅メダルを獲得した。度重なる怪我やスランプに悩まされつつも有森選手は非常に本番に強いということが分かる。

引退とその後の活動について

アトランタオリンピックの後、1999年のボストンマラソンでは、自己ベストの2時間26分39秒を打ち立て3位入賞を果たすも、その後は徐々に記録を落としていき一時休養をする。休養時には解説者として活躍するものの、2007年に開催された東京マラソンで引退を決意する。途中転倒やけがに見舞われたが、2時間52分45秒で完走しマラソン人生を全うした。
引退した現在は、日本陸上競技連盟の理事への就任や、東京オリンピック招致におけるアンバサダーなどスポーツにおける活動を精力的に続けている。

まとめ

今回は、日本女子マラソンの草分け的存在である有森裕子選手について紹介させていただいた。就職後に才能が開花し、怪我に悩まされながらも圧倒的な実力でオリンピックを戦った姿に感動した人も多いはずだ。これからも、スポーツ界を支え続けていってほしい。