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戦後の黄金時代を生き抜いた陸上選手君原健二の功績とは?!

2017 1/30 21:11
ランナー
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Photo by lzf/Shutterstock.com

みなさん、リオオリンピックは満喫されただろうか?のめり込みすぎて寝不足になった人もいるかもしれません。その熱が冷めきる前に、過去の選手についても知ってみるのはどうだろうか。競技の歴史を築いた人物を知れば、これからの試合観戦も面白くなる。今回は陸上の君原健二選手について紹介する。

君原選手とは

皆さんは、君原健二選手をご存知だろうか?昔から陸上競技を観戦してきた人にとっては伝説ともいえる人かもしれない。君原選手は、陸上競技の中でもマラソンにおいて当時輝かしい歴史を刻んできた選手だ。
君原選手は、1941年3月20日に福岡県に生を受けた。君原選手が、中学生の時に友達のすすめで駅伝クラブに入ったことから、陸上競技との生活を始める。中学高校時代はとりわけ成績が良かったわけではなく、目立った選手ではなかったのだが、陸上選手として現在の新日鐵住金に就職後のコーチの指導により花開いた。

マラソン第一次黄金時代

君原選手が就職した当時、新日鐵住金では高橋進コーチが指導を行っており、その指導により君原選手は飛躍的にランナーとして成長を果たした。君原選手をはじめとして、円谷幸吉選手や寺沢徹選手など日本には実力派のマラソン選手が同世代に集まっていた。
このことから、君原選手たちは男子マラソン界における第一次黄金時代といわれた。君原選手は、特に円谷選手と仲が良くライバルとして切磋琢磨していた。

東京オリンピックへの出場

君原選手は、1962年に福岡で開催された朝日国際マラソン(現・福岡国際マラソン)にランナーとして初めて出場し、3位を勝ち取った。その後東京オリンピックの選考競技会において、2位を勝ち取り東京オリンピックの代表に選考された。
当時は黄金世代の中でも、君原選手がメダルを獲得するだろうと大方が予想していたが、オリンピックという重圧に負けてしまい8位という悔しい結果となってしまう。現在では8位までは入賞となるが、当時は6位まで。君原選手にとっては本当に落ち込んでしまうほどの成績だったのだ。

メキシコオリンピックへの出場

君原選手は、東京オリンピック後ひどく落ち込み一時は引退を考えた時もあったようだ。だが、結婚をきっかけに当時の苦しみを吹っ切り再びマラソン選手として復帰する。
メキシコオリンピックの選考会においては、ライバルとのタイムに苦しめられ一時は代表選考が危ぶまれた。しかし、高橋コーチの推薦により見事オリンピックの代表選手となった。これは、当時君原選手のタイムより早い選手がいたため、物議になったが、それを跳ね除けるように君原選手は銀メダルを獲得する。

今でもマラソンを続けている

君原選手はその後ミュンヘンオリンピックに出場し、5位に入賞するも翌年1973年に引退を決意する。君原選手は引退後もフルマラソンには出場しており、すべて完走している。そして、ボストンマラソンで優勝して50年たったとして、2016年4月に特別招待された。この時、君原選手は75歳という高齢ながらも、4時間53分14秒という記録を打ち立てて、見事42.195kmを完走した。
その現在において、74回フルマラソンに出場して、すべて完走というしているので驚きだ。

まとめ

今回は戦後のマラソン黄金時代を気付いた君原健二選手について紹介させていただいた。君原選手は現在でもマラソンを続けており、75歳となった今でも完走を果たしている。これから生まれる記録にも大いに期待したい。