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「日本陸上界の父」織田幹雄の偉大なる功績

2016 11/29 21:30
駅伝ⒸShutterstock.com
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Photo by Pavel1964/Shutterstock.com

織田幹雄は戦後の日本において陸上競技の普及や指導活動を行い、多大な貢献をしてきたことから「日本陸上界の父」とも呼ばれた。 今回は、織田幹雄の生い立ちや残してきた功績などについて、紹介する。

幼少期はサッカー部へ

1905年(明治38年)に広島県海田市町(現海田町稲荷町)に生まれた。 小さい頃から運動神経は抜群で、小学校で郡部の200m走で優勝。中学校へ進学後も構内のマラソンで優勝している。 しかし、当時の中学校には陸上部はなく、脚力に自信があった織田はサッカー部に入部した。 サッカー部では、西日本でも有数の強豪校であったこともあり、1年、2年時は試合に出ることができなかったが、3年時から少しずつ出場できるようになる。

転機はある講習会から

織田は、ある教官から第7回オリンピックに出場した野口源三郎の講習会へ参加を勧められる。 その時に、高飛びで当時の織田の身長155cmを軽々と飛んだところを、野口に褒められたことがきっかけで陸上の世界へ進むこととなった。
中学4年時には、サッカー部を退部し、新しくできた徒歩部(陸上部)へ入部する。 当時の徒歩部には指導者はおらず、自己流で練習する日々がしばらく続いた。それでも、当時の走り幅跳日本記録を上回る記録で飛べるようにまでなる。

日本記録を更新

1922年、17歳の時には走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立するようにまで成長する。 その後も順調に成長を続け、1924年には走り幅跳、三段跳の二種目でオリンピックに出場するまでになる。 そこで、走高跳びでは予選落ちとなったが、三段跳びでは日本記録で6位入賞を遂げた。
オリンピック後は度重なるケガもあり、中々記録の伸びない日々も続いたが、それらの困難も乗り越えて記録を伸ばした。

日本人初の金メダル

1928年、織田に取って二回目となるオリンピック、アムステルダムオリンピックが開幕する。 走高跳びでは走高跳びでは8位に終わるが、その後出場した三段跳では、15m21を記録し、金メダル獲得の快挙を成し遂げた。この金メダルは、日本、アジアにとっても、個人競技初の金メダルだった。
4年後、ロサンゼルスオリンピックにも参加するが、結果は振るわず。1934年に一線を退くこととなった。 その後は、当時の陸上競技会ではいなかったとされる、指導者として活動を本格化させる。

戦後の日本復旧へ貢献

1945年8月に第二次世界大戦が終戦し、その4ヶ月後東京で陸上競技会が開催され、その日が日本陸上競技復興の第一歩となった。 戦後、日本は国際大会への出場が制限されるなど、厳しい時代が続いたが、織田は単身でアメリカなどの海外に渡るなど、精力的に活動を続けた。
陸上競技日本代表監督を務め、1964年の東京オリンピックまでの間、指揮を執り続ける。 その後は、現場を離れたが、母校である早稲田大学で教授に就任し、選手育成、後進の指導に務め、1998年12月2日織田幹雄はその長い生涯を閉じた。

まとめ

織田が晩年に残したものに、こんな言葉がある。 「強いものは美しい」 この言葉は、数々の困難や苦境を乗り越えて、金メダルを獲得した織田の人生の縮図のようにも思える。 織田幹雄は日本陸上競技会の礎となった偉大な人物なのだ。