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箱根駅伝界で歴史ある法政大学について知りたい!

2016 11/25 20:06
駅伝
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Photo by lzf/Shutterstock.com

箱根駅伝といえば、お正月の一番の目玉といっても過言ではない。学生たちの熱い戦いを見ることができるので、楽しみにしている人も多いのではないだろうか?今回は、そんな箱根駅伝出場大学の中でも歴史のある法政大学について紹介したいと思う。

第2回の箱根駅伝から出場している

箱根駅伝は非常に歴史が長く、1920年に「四大校対抗駅伝競走」という名前で始まった。
記念すべき第1回は早稲田大学、慶応大学、明治大学、筑波大学の4大学で開催。法政大学は、1922年の第2回大会から出場し、2016年までに合計で76回の出場を果たしている。これは、中央大学、日本大学、早稲田大学に次いで全大学で第4位の出場成績だ。また、最多連続出場回数は27回という記録を持っている。非常に歴史のある法政大学だが、その歩みはどのようなものだったのだろうか。

総合優勝の経験はまだない

法政大学は箱根駅伝の歴史において、第2回から出場している古参にもかかわらず、意外なことにまだ総合優勝の経験がない。
出場回数1位の中央大学で14回、2位の日本大学で12回、3位の早稲田大学で13階の総合優勝経験があるにもかかわらず、第4位の法政大学が総合優勝の経験がないというのは駅伝ファンの中でも非常に有名だ。予選を勝ち上ったり、シード回数は21回と比較的多いので、毎年のランナーのレベルは決して低いものではないといえるだろう。実力はあるけれども優勝経験がない大学チームとして、ある意味コアなファンも増えてきている。

1931年初の往路優勝で総合優勝を狙うが

法政大学は、これまで総合優勝の経験はないが、その実力は周知の事実だった。1931年に開催された第12回の箱根駅伝においては、法政大学は悲願の往路優勝を果たしている。
この時の法政大学のコンディションは最高であり、復路優勝も不可能ではないといわれていた。実際、復路においても、第7区の時点までは堂々の1位を守りながら走っていた。しかし、その7区において、早稲田大学にリードをされてしまう。続いての第8区では、早稲田大学との熱い戦いで首位の取り合いになるが、ついに引き離されてしまう。それにより総合優勝を取り損なってしまう。

長い暗黒時代からの復活

箱根駅伝の歴史の中で、戦争により一時駅伝開催が中断されてしまう。
1947年に戦後初の第23回の箱根駅伝が開催される。その時の箱根駅伝において、戦後間もないということもあり、法政大学はなんと最下位という成績だった。その後優勝はできないものの、連続出場を続け、平均8位前後という成績で落ち着いていたのだが、シードを落としてしまった1971年と1972年において、ついに予選会で本選出場を逃すという結果になってしまった。
その後20年近くの間で本選出場できた回数は10回になってしまい、また、出場しても成績が振るわない結果となっていた。法政大学の評価は上位校の座から落とされ、低迷が続く結果となった。

徳本一善による法政大学復活と涙

長らく低迷していた法政大学だが、2001年に2区を走っていた徳本一善の活躍により、3位から一気に1位に這い上がる。その後も4区までは1位をキープしていまいしたが、残念ながら3位になってしまい、総合4位になった。だが、これまでの低迷を乗り越えたということで、大きな期待を受けることになる。
2002年においても期待されていた、徳本一善だったが、この年の徳本は2区の走り初めからからだの不調を抱えていた。様子を見に行った成田監督に「まだ行ける。」と辛そうに語る徳本を抑えて棄権を告げた成田監督と、崩れ落ちた徳本一善の姿が記憶に残る人は多いだろう。

まとめ

法政大学は、その後2006年にタイムによる復路優勝という記録を達成するが、今でも総合優勝の経験はないままとなっている。だが、歴史の長い法政大学の総合優勝の姿を一目見たいと思うファンは多く、また選手たちもそれを目標に練習に励んでいる。今後の大会にも法政大学の活躍には目が離せない。