「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

箱根駅伝・第一回大会を振り返ってみよう!

2016 10/24 19:31
マラソン 白黒
このエントリーをはてなブックマークに追加

Photo by Di Studio/Shutterstock.com

現在は国民的なイベントになっている箱根駅伝。第一回大会はどんな感じだったのか振り返ってみたいと思う。

第一回箱根駅伝が開催された当時の時代背景

第一回の箱根駅伝は、1920年2月14日と15日の2日間で開催された。
1920年は日本の年号では大正9年にあたり、日本がまだ大日本帝国だった時代だ。第一次世界大戦による特需景気で発展を続けていた日本経済が、その反動で不況に陥り始めるのがちょうどこの時期だ。
一方でアメリカ経済は史上空前の発展を続けて、それまで世界経済の中心であったロンドンをしのぎ、ニューヨークのウォール街が世界の中心となっていく。この時代から世界的にスポーツ熱は高く、戦争の影響がない限りはオリンピックも開催され続けていたし、日本からも選手が参加していた。

箱根駅伝が開催に至る経緯

1912年のストックホルムオリンピックのマラソン代表で日本における「マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなぐり しそう)は、マラソン選手であり、教育者でもあった。
当時の教育者仲間と日本マラソンの強化を考えていた金栗は、アメリカ大陸を駅伝で横断する計画を立てた。箱根駅伝の第一回はそのための選手選考という名目で計画されたといわれている。また箱根が選ばれたのは、冬場に観光客が減ってしまう箱根に観光客を呼び込むという意味合いもあったとされている。

第一回の参加チーム

思い付きで開催されたのもあったのか、第一回目の参加チームは全部で4チームだった。長距離の実力者を10人集める必要があることや、二日がかりの過酷なレースということもあるので、致し方ない部分もあったと推察される。
関東地方の学校に広く参加を呼びかけたが、結局、筑波大学の前身・東京高等師範学校、早稲田大学、明治大学、慶應義塾大学の4校で開催することになる。学生たちは1920年2月14日、この日が土曜日だったので午前中の授業を受けたあとに、有楽町にある報知新聞社前から13時にスタートする。

第一回大会、往路の様子

往路では1区で東京高等師範学校が首位に立つが、2区で明治大学が巻き返して1位になるとそのまま5区まで首位を守り往路優勝を果たす。往路は明治大学7時間30分36秒、東京高等師範学校7時間39分03秒、早稲田大学7時間47分13秒、慶應義塾大学8時間53分31秒という結果だった。
最後は20時を超えたため、たいまつを灯しながら走ったといわれている。慶應義塾大学が少し遅れてしまうが、4チームとも見事にたすきをつなぎ1日目を終えることができた。

第一回大会、総合結果

翌日15日は朝の7時にスタートし、明治が独走態勢を築くが最終10区でタイムを落とし、東京高等師範学校が逆転優勝を飾る。
最終結果は東京高等師範学校15時間05分16秒、明治大学15時間05分41秒、早稲田大学15時間15分31秒、慶應義塾大学16時間50分56秒という結果になった
。東京から箱根を往復して1位と2位の差がわずかに25秒という結果になり、この時から箱根駅伝はドラマチックな激闘が始まっていたことがわかる。慶應義塾大学はトップから1時間45分40秒の差をつけられるが、無事にたすきをつなぎ完走している。

まとめ

箱根駅伝の第一回大会を振り返ってみた。順位やタイムはともかく、未知の大会に挑んだ4チームには拍手を送りたい。