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【SPAIAインタビュー:第9回】

スキージャンプ選手 葛西紀明 ~欲しいものは「世界一」の称号

スキージャンプ

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© 2017 SPAIA

16歳のワールドカップ出場から45歳の現在まで、およそ29年間日本のスキージャンプ界を牽引してきた葛西紀明選手。20代でピークを迎え、30歳を過ぎると引退する選手も多いスキージャンプという競技において、40歳を過ぎて現役で活躍し続ける選手はほとんどいません。

「レジェンド」と称えられるその凄さは、どのような経験をくぐり抜け、どれほどの努力の上にあるものなのか。じっくりとお話をお聞きしました。

【ゲスト】

スキージャンプ選手

葛西紀明

1972年6月6日生まれ、北海道上川郡下川町出身。小学3年生よりスキージャンプを始める。高校卒業後、地崎工業、マイカルを経て2001年土屋ホームに入社。現在は選手兼任監督。

冬季五輪最多出場、W杯個人最多出場、世界選手権ジャンプ部門最多出場、五輪ジャンプ最年長メダル、W杯最年長スキージャンプ優勝の5つのギネス記録を持つ。1994年のリレハンメル五輪では団体で銅メダル、2014年のソチ五輪では個人で銀メダル、団体で銅メダルを獲得。

40歳を過ぎてもなお現役選手として一線で活躍していることから「レジェンド」と呼ばれ、日本はもちろん海外のスキー選手やファンからも多くの尊敬を集めている。好きな言葉は「努力」。

■トレーニングについて

――ウインタースポーツが色々ある中で、そもそも葛西さんがスキージャンプをするようになったのはなぜなんですか。

葛西:(出身地の)下川町がスキージャンプの盛んな町だったんです。9歳の時ですかね。スキーで滑っている横にジャンプ台が4台あって、「あれは何かな?」と気になっていて、友達に「ちょっと飛んでみようよ」と誘われたのがきっかけです。小さいころからそういうスリルが好きだったんでしょう(笑)。怖いけれど飛んでみたいという気持ちがありました。

――それからはずっとジャンプ一筋でこられた。

葛西:そうですね。でも、親はジャンプをやらせたいとは思ってなかったみたいです。親がマラソンをやっていた流れで、クロスカントリーもしていたんですよ。クロスカントリー、結構つらいじゃないですか。やりながら、「なんでこんなことやってんのかな。ジャンプの方が楽しいのに」と思っていて(笑)。

下川町は(もっとも寒いとき)マイナス30℃を超えるんですよ。それでマイナス20℃を超える中でクロスカントリーをやっていると、手も足も凍傷になりそうなくらいカチカチになるので、「最悪の競技だなあ」となってしまって、よりジャンプにはまってしまいました。

――高校生からワールドカップに参戦して現在まで、トップアスリートとしての成績を維持してこられました。10代からどのようなトレーニングをされていたのでしょう。今は監督も兼任されていますが、それによりトレーニングはどのように変わりましたか。

葛西:高校を卒業してからは、すごい鬼トレーナーがいて地獄のようなトレーニングをさせられました。やっぱりそのトレーニング量が自信に繋がってたんですよね。全日本のジャンプチームの中では、ずば抜けて僕が一番、体力・筋力・瞬発力・持久力があったんです。負けるはずがないと思うくらいのトレーニングをしました。

ウェイトでいえば、スクワット200kg、ハイクリーン100kg、ジャンプスクワット100kgとか。陸上トレーニングだと、1500mを連続で3本、200mダッシュ10本、100m10本、50m10本という過酷なトレーニングをしてました。朝9時からやるんですけど、終わるのは午後1時ですよ。お昼を食べて30分程度休んだら、自転車1.5kmの坂道ダッシュ10本だとか。とにかく考えられないようなトレーニングをやってきました。

それがあったからこそ、今ここまでできているんですけども、30歳を超えてからはそういうトレーニングをやらなくなり、ジャンプに必要な筋力や維持していく内容に変わりました。フィンランドのコーチ(後述)の影響もありますし、やはり同じようなトレーニングをずっと続けると膝や腰にくるので、その辺は変わってきましたね。

今はチームに若い選手がいるので、彼らにも昔僕がやったトレーニングを、ちょっとやらせています。1/3くらいかなあ。それでもひいひい言うので、まだまだだなあと思いながら(笑)。この間の宮古島合宿のトレーニングでも取り入れていて、腹筋を250回2セットか500回1セットどちらかを選択させて、若い選手2人は250回2セット、伊藤有希と僕は500回1セットやりました。みんなもう本当につらそうで(笑)。

葛西紀明

▲宮古島合宿でのトレーニングの様子(写真提供:株式会社土屋ホーム)

 

――宮古島合宿では怪我をしないトレーニングをされているという記事を拝見しましたが、具体的にはどういうことをされているのでしょうか。

葛西:ウェイトだとか、ハードルを置いて飛んでいくトレーニングがあるんですけど。ウェイトはあまり重いものを持つと腰が痛くなるので、ちょっと軽めで。ハードルは高く飛びすぎると膝に負担がくるので注意しています。10年位前に140cmくらいのハードルでトレーニングしていて、着地で膝の皿の関節を痛めて。痛みが出てしまうと一生治らないので、トレーニングを変えるように言われて、少しずつ変えてきました。

――ちなみに、スキージャンプに必要な筋力はどこでしょう。

葛西:一番は、太ももです。あとは、足、お尻、腹筋、背筋。上半身はまったくつけないです。「ゼロ」です。あまり上半身をつけると重くなってしまって、前傾姿勢が取れなくなるので。

――ジャンプでは筋力だけではなく、瞬時の判断力も必要な競技ではないかと思います。そのあたりはどのようして鍛えられるものなのでしょうか。

葛西:ジャンプのトレーニングでは鍛えられないと思います。僕は、いろんな球技でそういう判断力や瞬発力を付けるようにしています。サッカー、バレーボール、バドミントン、テニス、バスケットボール、卓球。球技全てをやるくらいですね。どこに球がいったらどういう動きをするか瞬時に考えて動くように、後輩へ指導しています。

――45歳を超えて体力的に限界を感じることなどはありますか。

葛西:ないです。未だに後輩にも言われます。「なんですか。その体力?」って(笑)。皆、まだ僕に勝てないんです。筋力は若手の方がありますが、持久力・体力はまだまだ負けないです。

■緊張しなさすぎても失敗、ちょうど良い緊張感で飛ぶ

――スキージャンプにおいてメンタルバランスは重要な要素だと思いますが、メンタル面を安定させる為に取り入れていることや、気をつけていることはありますか。

葛西:朝起きて走って、その後10分間くらい音楽を聴きながらメンタルトレーニングをして、その日の作戦だったり、調子が悪かったらどこが悪いのか探したりします。走っている間も考えながら。
そうすると閃くんです。「ここだ」と。これをやれば前のいいジャンプに戻るんだとか。表彰台の一番高いところに登るイメージとか。もしくは、自分が欲しいもの、車を買いたいとか家を建てたいということも考えています。ワールドカップの賞金を稼ごう、オリンピックでメダルを獲ろう、などもイメージしながらやっています。

去年から宮古島の合宿でも教えるようにしています。なかなかこういうのは続かないんですよね。僕も何度もやらないこともあったし。だから、後輩たちを朝6時に集合させて、走りながらこういうことを考えるんだよと教えたり、海辺で波の音を聞きながらイメージトレーニングをしてから朝食を食べる、そういう癖をつけさせるために教えています。

――今でも緊張することはありますか。緊張した時の対処方法や、そもそも緊張しないための訓練などもあるのでしょうか。

葛西:今でも緊張します。先日の試合でも、結構楽に勝てるパターンだったはずなんですけど、緊張して2位になってしまいました。もともと、結構緊張するタイプで(笑)。どの試合でも優勝がかかると、どうしても緊張するんです。
僕の場合、緊張すると200くらいまで脈が上がるので、それで何度も失敗してきました。怪我でも何勝も逃したけれど、緊張が原因でも20勝程度逃したのではないかな。それくらい緊張して失敗することが多かった。

ある時、緊張しながらも冷静にスタート台に立ってなぜだろうと思ったら、脈が速い。頭に血が上らないような、うっ血するような感じになっていて「あ、脈が悪いのかな」と、ある時脈を下げる方法を編み出したんです。企業秘密なので教えないですけど(笑)。それが32、3歳くらいですかね。その方法をすると失敗しなくなったんです。

試合の中では、緊張しなさ過ぎて失敗することもあったんですよ。全然緊張してないな、これは絶対いけるなと思うと、逆に失敗。ちょうど良い緊張状態まで脈を下げて飛ぶと成功することに気付きました。若い頃にこの方法を知っていたら、何勝したんだろうなと思います。

葛西紀明

▲2016年1月、ギネス世界記録認定証を手に(写真提供:株式会社土屋ホーム)

■恐怖心との長い長い戦い

――これまでの競技生活の中で、強く記憶に残っている出来事はどんなことでしょうか。

葛西:最初にV字に変わった時。1991~92年頃で初めてのオリンピック出場前でした。僕は結構器用なタイプで、何でもすぐできちゃうんですが、このV字だけはなかなかできなくて。

V字が流行り出したのは91年のシーズンですかね。周りの選手はその夏くらいからやり始めていたので、もうだいぶマスターしてたんですよ。僕だけが頑固に真っ直ぐ揃えて飛んでいて、これで絶対オリンピック行くぞという気持ちでいたんです。けれど、オリンピックの1か月前に、全日本スキー連盟の部長から今の主流はV字だから変更するように言われたんですよ。一応断ったんですけど(笑)。ただ、V字にしないとオリンピックに連れていかないよと言われて、次の日からV字に取り組んだんです。まあ2、3日でできるかな、下手したら2、3本飛べばできるんじゃないかと思ってたら、全然できなくて。

それ(V字で飛ぶこと)が人生で一番怖かったですね。スキーが前からなくなるので。それまでは前にあって安心感があったのが、何もなくなると「うわあ怖い」となって、2、3週間くらいずっとできなかったです。あきらめかけたときもあったんですけど。
何とか最後の1週間でV字ができるようになって、オリンピックに行って、オリンピックでは全然V字を開けずに終わってしまった。初めてのオリンピックだったのに、あまりのプレッシャーにV字が開けなかったんですよ。「これがオリンピックかあ…」という感じで。もっと早くにV字にしておけばよかったなと後悔しましたね。

――オリンピック本番の時には、もう恐怖心はなかったんですか。

葛西:ラージぐらいだったなら大丈夫でしたけど、その後に200mくらい飛ぶフライングはさすがに怖かったですね。開けないんじゃないかな、と。ただ始めたときと一緒で、怖いけど飛んでみたいんですよ(笑)。どれくらい行くのかなって。
結局オリンピックの後のフライングの大会で、怖かったんですけど、開くことだけを考えて飛んで、優勝したんです。ああ、こうやって開けば飛んでいけるんだ、勝てるんだというのが初めてわかりました。

その後に、2年後ですかね。初めての大転倒で鎖骨を折ったんです。それが94年の11月。折って帰ってきて、手術して骨がくっついて、年が明けて1月の練習でまたこけて、同じところを折りました。2カ月のうちに2回同じ鎖骨を骨折です。

――1回目の骨折から、まだ完治はしていない状態だったのでしょうか。

葛西:骨の中にピンを入れて手術して、骨はすぐにくっついてたんですけど、そのまま骨にピンを入れたまま飛んでたんです。このピンはシーズンが終わったら抜くよと言われてて。それでまた大転倒して、鎖骨からドーンといって同じところを。そのピンがぐんにゃり曲がっていました。それが恐怖心を植え付けられた一撃でしたね。

――2回目の怪我の後の方が怖かったということですか。

葛西:そうですね。1回目の復活の時は怖くなかったんですけど、2回目の転倒でけがが治った後は怖かった。飛べなかったです。そこでシーズンが終了しました。スタート台に座っても、スタートできないんです。「怖い。だめだ」と言って降りて、はいシーズン終了。

――どうやってその恐怖心を乗り越えられたんですか。

葛西:それが、その恐怖心は10年くらい続いたんですよ。
ワールドカップは年間30試合くらいあるんですけど、その中に強風の試合が必ず4、5試合はあるんです。風が強くなればなるほど、どんどん怖くなってきて、優勝がかかっている2本目でも、強風になったら怖くて飛べなくなって失敗。優勝を何回も逃しました。

そういう強風の試合を、なんとか転ばずに、恐怖心を抑えながら飛んできて、多分それが積み重なって10年間で恐怖心が少しずつ取れていったんだと思います。

2005年のワールドカップ フライングの試合。ものすごい強風で、プロペラもくるくる回る。普通なら中止になる試合です。大体ジャンプ選手が飛ぶのは30秒くらいで終わるんですよ。その時は15分くらいかけながら風の状況を見ては選手1人を飛ばして、僕の順番まで回ってきたんです。「飛びたくない。もう中止でいいよ」と思っていたら、信号がぱっと青になっちゃって、コーチからも行け!と合図が出て、仕方なく飛んだんです。

ただ、びびって飛んだらケガするなあ、怖いけどいっちゃうしかないと、思い切り前傾をかけてバーッと飛んだんです。そしたら190mくらいいってテレマークもぴたりと入れて、なんとかこけずに済んだ。滑り終えた時、その瞬間から恐怖心がぱんっとなくなりました。色々積み重なって最後がそこだった。それ以来、怖くはなくなりましたね。恐怖心は克服しました。

葛西紀明

▲深く前傾し手のひらを広げて風を受け止める葛西選手の飛行(写真提供:株式会社土屋ホーム)

■挫折の後に訪れたターニングポイント

葛西:2002年のソルトレイクオリンピックの時。自分の身体をいじめてトレーニングして、これ以上ないくらい最強の身体を作って挑んだんです。ジャンプ力もすごかったし、パワーもメンタルも勉強して、トレーニングして。ただ、技術だけが伴わなかった。心技体の技が。身体がキレすぎてジャンプがかみ合わないんです。

そんなに頑張ったのに、確かソルトレイクが7回出たオリンピックで一番成績が悪かったと思うんです。転倒もしましたし。そこで挫折を味わって、辞めたいとは思わなかったですけど、このままだらだら続けていくのかなと、打ちのめされてがっくりきました。

その後の2003年シーズンから、チームでフィンランド人のコーチを2人雇って。僕より年下の2人だったんです。「俺たちは紀明より年下だし経験もないし、そんなに教えることもないかもしれないけれど、まあフィンランドのスタイルをアドバイスできたらいいな」というスタンスでした。

それまでの僕だったら、頑固で、そんなのいらないという感じだったと思いますが、ソルトレイクであまりにも打ちのめされていて、これはもうゼロからやり直すしかないなという気持ちになっていました。それでフィンランドのスタイルを教えてもらおうとすごく意気投合して、いろいろと教えてもらいました。

それで年が明けての世界選手権でメダルを3つ獲ったんですよ。「考え方を変えたり、頭を柔軟にすることによって、こんなにすごい成績が出るんだ。まだ俺はいけるんだ」と。そこが、自分の中で一番のターニングポイントだったと思います。本当に諦めかけていた感じだったので。まだがんばれる。世界で戦える。そう思わせてくれました。

――コーチから教わったことでは、何が印象的でしたか。

葛西:それ以前はがつがつトレーニングをしていて、多分意味のないトレーニングもあったかもしれないです。フィンランドスタイルだと、それまでやってきた練習の1/3くらいしかやらなくて、こんなのでいいのかな、というくらい。その中にリフレッシュやリラックスを入れていくんです。フィンランドで合宿していたら、みんなでバギーやハスキー犬のそりに乗りに行くぞ!みたいな。ジャンプのことをあまり考えさせないというやり方で、ストレスがない。

ああ、こういうやり方もあるんだなあと。だからうまく休めるようになったのはコーチたちのおかげだし、自分に合うなと思いました。

■1番の目標はオリンピックでの金メダル

――今の社会を生きる同世代の人たちに伝えたいことはありますか。

葛西:僕は今45歳。当然ですが、家族だったり、会社だったり、友人、知人、ファンの方、たくさんの人に支えられて、ここまで頑張ってこれている。「ここまでできるぞ!」ということを、全国の方に見てもらえていると思っています。スポーツじゃないにしても仕事だとか、45になっても50になってもがんばれるぞ、ということを強く同世代の方に思ってもらいたいです。

――今はもちろん平昌オリンピックが最大の目標だとは思いますが、平昌の後、今後の夢などはありますか。

葛西:平昌は半年後ですね。近い目標になるんですけど。…ここまできたら、もう辞めたくないですね。金メダルを獲ったとしても(笑)。 平昌の次が北京で、50歳になるので、そこまでやりたいという気持ちはあります。

サッカーのカズさんも50歳でがんばっていらっしゃるので、すごく良い目標としています。素晴らしい方だなあ、ああいう風になっていけたらなあと思っています。北京の次には札幌でのオリンピックを誘致しているので、もし札幌に来ることになったら、もう4年(笑)。54歳になりますが、いけたらすごいなあ。

もちろん、一番の目標は金メダルを獲りたい。日本人で持っているのは笠谷幸生さんだったり、長野の団体の4人だったり。…僕だけ持っていないのは悔しいんですよ。そこの夢はあきらめたくない。

次のオリンピックで(代表に)選ばれるかどうかもわからない。選ばれたとしてもメダルにとどくとは限らない。僕がオリンピックに出るようになって22年かけてようやく取れた銀メダル・銅メダルだったので、簡単に取れるとは考えていない。タイミングがうまくかみ合うチャンスを逃さずに、諦めずに金メダルに向かってやっていきたいです。

――葛西選手にとって、オリンピックとはどんな大会ですか。

葛西:やっぱり「世界一を決める大会」なんじゃないかなと僕は思いますね。トータルしてみると、ワールドカップの方が競技のレベルは高いです。ワールドカップは6人出れるんです。オリンピックはその中の4人しか出れないですし、なおかつ4年に1度。飛べるジャンプはたった2本。

あのスピードでタイミングを合わせて飛ぶ。タイミングをうまく合わせても、風はどうなのかとか、そういう難しさがジャンプにはあるんですね。毎回風がないときは理不尽な競技だなと思うんですが(笑)。その中で4年に1度に合わせるオリンピックなので、なかなか合わないと思うんですよね。

――運も味方につけなければいけない大会ですね。

葛西:一番難しい大会だし、ここですべてをぶつけるというか。運も全部かみ合って勝った時が世界一じゃないかな。そういう世界一の称号が、僕は欲しいと思っています。

葛西紀明

▲2017年8月、大倉山チャレンジカップ2017サマージャンプ大会で優勝(写真提供:株式会社土屋ホーム)


(取材・写真[トップ、ゲスト]:小中村政一 / 構成・編集:SPAIA編集部)

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