北島康介選手の水泳人生の始まりと日本の競泳界の低迷
北島康介選手は、1982年東京都荒川区生まれ。実家は西日暮里の精肉店「肉のきたじま」さん。水泳を始めたのは5歳からで、東京スイミングセンター(東京SC)に通っていた。中学2年生の時に、東京SCの平井伯昌コーチにその才能を見出された。
その頃の日本の競泳界というと、世界No1として全盛期を迎えていた1930~1940年代以降、鈴木大地選手や岩崎恭子選手ら金メダリストを輩出するものの、世界での競争力は落ちる一方だった。もともと体格差で不利になりやすいということもあり、苦境の最中にあった。
北島康介選手が日本の水泳にもたらした快挙
高校3年生で出場した2000年シドニーオリンピックでは、初出場ながら100m平泳ぎで4位に入賞、日本新記録を樹立した。その後は日本選手権において、4年連続で男子50m、100m、200mの平泳ぎすべてで優勝という快挙を成し遂げる。
そんな北島選手の活躍と、競泳界あげての選手強化対策が身を結んだのが2004年アテネオリンピックだった。北島選手は100m平泳ぎで日本に金メダルをもたらしたのだ。
競技に専念するため日体大大学院を2006年に中退。迎えた2008年北京オリンピックでも100m、200m平泳ぎで金メダルを獲得し、オリンピック史上初の平泳ぎ2大会連続2種目制覇を達成したのだった。
北島康介選手の名言
北島選手と言えば印象に残る名言がいくつか知られているが、中でも有名なのは2004年のアテネオリンピック金メダル獲得の際の「チョー気持ちいい」だろう。勝利を噛み締めるように放たれたこの言葉は、新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれた。
そしてもうひとつの名言は、2008年北京オリンピック。平泳ぎで2大会連続2種目制覇の快挙の感想を聞かれた時の、万感の思いがこもった「何も言えねぇ」も有名だ。
実力が伴った上で放たれる「勝負は勝ちに行くから面白い」といった強気でポジティブな名言の数々は、多くの人を励まし、鼓舞したのではないだろうか。
北島康介選手が水泳界に与えた影響
2012年のロンドンオリンピックでは、日本競泳史上初の4大会連続オリンピック出場を果たした。個人ではメダルに届かなかったが、男子400mメドレーリレーでは第2泳者として出場し、日本の順位を2位から1位へ押し上げ、まさにキャプテンとして銀メダルをもたらした。
レース後のインタビューで松田丈志選手の
「康介さんを手ぶらで帰すわけにいかないと、3人で話していた。(日本競泳陣の)27人で取ったメダルだ」
出典:
日本経済新聞
という発言は、北島選手が競泳日本代表の若手選手たちの精神的支柱であったことをうかがわせるものだった。
引退表明後の水泳北島康介選手
その後も世界選手権に出場してメダルを獲得するなど衰えを見せなかった北島選手だが、2014年には主だった大会への出場資格を満たすことができなかった。これは18歳の時に出場したシドニーオリンピック以来、13年にわたって現役のトップを走り続けた北島選手にとって、1999年以来のことだった。
そして、2016年に行われたリオデジャネイロオリンピックでは代表入りを逃し、ついに現役引退を表明した。
2012年にはスイミングスクールを設立し、水泳というスポーツの認知に意欲を示している。また、競技のスタジオゲストとしてメディアに出演したりと、引退後も活躍の場を広げている。
まとめ
日本の競泳界を牽引してきた北島選手の引退表明のニュースに驚かれた方も多いのではないだろうか。
今後は後進の育成や解説など、はたまたスポーツ界以外にも活躍の場を広げていくのかもしれない。
現役時代にトップを走り続けてきた北島選手だからこそ、引退後もその活躍に注目していきたい。