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小兵力士の醍醐味を伝える力士が幕内に 大相撲九州場所は石浦に注目

2016 11/18 10:02きょういち
相撲
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巨漢力士が多い時代に現れた異色の力士

 かつて、高見山、小錦と巨漢が現れた時は、異質な力士として楽しかった。それが、大柄な海外出身力士が増え、それに対抗するかのように日本人力士も大型化が進んだ。今場所の幕内最重量はモンゴル出身の逸ノ城で213キロ。日本勢も170キロを超える力士はざらにいる。
 力士が大きくなって、初代貴ノ花や先日亡くなった千代の富士のように、スピード感あふれる相撲が少なくなったと言われる。そんな中、異色の小兵力士がこの九州場所で新入幕を果たした。

 東前頭15枚目、宮城野部屋の石浦である。

 

あの大横綱の内弟子なんです

 身長173センチ、体重114キロ、26歳。大男が居並ぶ幕内において、ひときわ小さい。取材する記者の方が背が高いなんてことはざら。体重は幕内最軽量。本名は石浦将勝。下の名は「まさかつ」と読む。

 大横綱白鵬の内弟子で、関取になるまでは白鵬の付け人をしていた。白鵬には「マサカツ」と呼ばれ、下働きをしていた。

 逸ノ城ら、多くの関取が輩出した強豪、鳥取城北高校相撲部の石浦外喜義監督が父になる。5歳で相撲を始め、同高校から日本大学へ進学。アマチュア相撲の王道を進んだ。  だが、学生時代に内臓の病気を患い、軽量の体重がさらに減って団体戦のレギュラーからも外れた。相撲から心が離れ、プロになる道を断念した。
 一時は総合格闘技の選手を目指したが、卒業後は豪州へ語学留学した経歴を持つ。石浦が相撲に戻ってくるきっかけは、豪州で見た大相撲のインターネット中継だった。

 「胸が熱くなった」。

 先に角界入りした高校、大学の同級生の山口が関取昇進を決めていた。輝いて見えた。大量に米を食べ続け、80キロを切っていた体重を100キロに近づけた。四股、腕立て、腹筋を毎日に300回ずつこなし、もう一度体を鍛え上げ、山口と同じ宮城野部屋へ入門した。

 

とにかく食べた

 入門当初は約100キロ。一般人と比べれば大きくても、力士としては線が細かった。序の口や序二段では、その格闘センスとスピードで圧倒したが、幕下となると簡単にはいかなくなった。
 体を大きくする努力は惜しまなかった。当時、どうやって太ろうとしているの?と聞いたところ、「とにかく時間があるときに食べる」という答えだった。白鵬の付け人として、いろんなところに連れ出され、お世話をする。その間、時間を見つけてはコンビニなどで食料を買って、食べていたのだという。

 トレーニングも欠かさなかった。ただ、太ればいいというものではない。石浦が幕下にいたころだったと思う。腕の筋肉が盛り上がり、胸が厚みを増した。そして何より、力士らしい腹の出方になった。

 「お相撲さんの体になったね」

 そう伝えると、石浦は喜んでくれた。「ジムに通ってるんです」と教えてくれた。

 

スピードこそチビの生きる道

 デビューからとんとん拍子で幕下に上がったが、幕下では9場所を過ごすことになる。  ケガの影響も大きかったと思う。左手の指の靱帯を痛めていたが、手術をしなかった。白鵬の「稽古しながら治せ」という言葉があったからだ。手のケガのことはあまりほかには漏らさなかった。格闘家として、己の弱点を知られるのは、致命的だからだ。昨今、痛いところに安易にサポーターを巻いたり、テーピングをしたりする力士が多いが、石浦は違った。 体を大きくしたとはいえ、体格差もなかなか克服できずにいた。
そんな時だった。筆者から、人気バスケットボール漫画「スラムダンク」の話をした。漫画の中で、宮城リョータという小柄な選手が「ドリブルこそチビの生きる道」というセリフを言う。それをもじって、「スピードこそチビの生きる道だよね」と話した。短所を埋めるよりも、長所で勝負した方がいいよね、という意味で伝えた。

 石浦が笑ってくれたのを覚えている。

 2015年初場所後に十両昇進が決定。鳥取出身の関取は、第53代横綱琴櫻以来、53年ぶりのことだった。十両でも10場所を過ごしたが、今年の九州場所で新入幕。これも鳥取出身としては琴櫻以来、53年ぶりのこと。地元ではパレードが行われた。

九州場所では5日目を終えて、4勝1敗。5日目は巨漢の逸ノ城を豪快に投げ飛ばし、喝采を浴びた。スピードで相手を上回って横に食らいつき、多彩な技で敵を振り回す姿も目立つ。石浦らしい戦い方だ。モットーは「ワクワクしてもらえる相撲をとる」。

チビの生きる道を彼は証明してくれている。

(きょういち)