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無名のディフェンダーだった塩谷司選手と、その恩師・柱谷哲二氏

2017 4/12 20:20Aki
shiotani
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一躍名前が知られるようになったオリンピック代表

塩谷司選手の名前が広く世間に知られるようになったのは、2016年のリオデジャネイロオリンピック代表にオーバーエイジとして選出されてからだろう。残念ながらチームはグループリーグで敗退となったが、塩谷選手は全試合にフル出場しチームを支えた。
彼がリオデジャネイロオリンピックのオーバーエイジに選ばれた事や、日本代表に選出されるようになったのはサンフレッチェ広島での活躍があったからだろう。塩谷選手は、サンフレッチェ広島の選手に多い下部組織出身や生え抜きという訳ではなく、2012年にJ2の水戸ホーリーホックから移籍してきた選手だ。
それまでは特に目立った功績もなく、年代別日本代表にも選出されたこともなかった選手だ。2012年の移籍で注目していたのは、熱心なサッカーファンぐらいだっただろう。
いわゆるサッカー界のエリート街道とは外れながらも、精一杯歩み続けることでJリーグ優勝チームの重要な選手となり、日本代表にも選ばれることとなった塩谷司選手とはどんな選手なのだろう。

全く無名選手だったプロ入り前

塩谷選手は徳島県出身で、小学生の頃はフォワードとしてプレーしていた。中学に入ると、現在の徳島ヴォルティスの前進チームにあたる大塚FCジュニアユースに加入した。 当時のサッカー界はJ2リーグを新設し、Jリーグの拡大を図っていた頃だ。元々は大塚FCもJリーグ入りを目指していたが、結局その拡大には参加しなかった。
一度Jリーグ入を断念した時期にジュニアユースでプレーしていた塩谷選手は、地域のトレセンに選ばれる事もほとんどない存在だった。 高校は徳島商業に入学。1、2年生の時に全国高校サッカー選手権に出場しているものの、全国のサッカー界から注目を集めることはできなかった。
しかし、この全国高校サッカー選手権に出場したことで国士舘大学から特待生として誘いを受け、国士舘大学に進学する。この誘いを受けるまでは高校を卒業すれば就職するつもりでいた塩谷選手が、後にプロサッカー選手として活躍する姿を想像していた人はいなかったのではないだろうか。
国士舘大学進学後も1年から3年まで、あまり試合に出場しない控え選手だった。また大学3年時に父親が他界したことで地元徳島を離れて暮らしていた塩谷は、一度サッカーを辞め退学をしたいと当時の監督に伝えていたのだ。だが、周囲のサポートにより翻意、サッカーを続ける決断をする。

塩谷選手にとって恩師となる柱谷哲二氏との出会い

塩谷選手にとって後に恩師となる柱谷哲二氏と出会ったのは、塩谷選手が大学2年生の時だった。
長きに渡って日本代表のキャプテンを務めていた柱谷哲二氏が、母校でもある国士舘大学の臨時コーチに就任した事がきっかけだった。当時の塩谷選手はレギュラー選手ではなかったが、柱谷哲二氏は彼の資質を見抜き「絶対に上でやれるから、もう少しちゃんとしろ」と伝えた。
2度目の出会いは塩谷選手が大学4年生の時で、柱谷哲二氏が正式に国士舘大学のコーチに就任した年だった。約半年前に、一度はサッカーを辞める決断をしながら再びプレーすることを決めた塩谷選手は、以前に自分を高く評価してくれた柱谷哲二氏に「本気でプロになりたい」と伝えた。
すると柱谷哲二氏は、それまで守備的ミッドフィルダーとしてプレーしていた塩谷選手をセンターバックにコンバートし、技術的な事だけでなく走ることや身体を張るベーシックなこと、そしてプロとしてやっていく為に必要なメンタル面など、日本代表のキャプテンにまで上り詰めた自らの経験を全て伝授した。そのかいあって、塩谷選手は大学でレギュラーポジションを獲得することができた。
しかし大学卒業前にオファーを受けたのは、当時JFLで活動していたSAGAWA SHIGA FCのみだった。

柱谷哲二氏が水戸ホーリーホックの監督に就任

周囲が大学卒業後の進路を次々と決めていく中、プロからの声がかからない塩谷選手だったが2010年11月、柱谷哲二氏が2011年よりJ2水戸ホーリーホックの監督に就任することが決定。 すると柱谷哲二氏は、塩谷選手に来季から水戸ホーリーホックでプレーしないかと声をかけたのだ。
これにより塩谷選手は、2011年から水戸ホーリーホックの選手としてプレーすることになる。 全国的には大学4年生の1年間しか目立った実績の無い塩谷選手だったが、その柱谷哲二氏がコンサドーレ札幌監督時代に指導した今野泰幸選手(元日本代表で現ガンバ大阪)に近いタイプと評していたとおりのプレーで、1年目の開幕戦からレギュラーポジションを獲得する。
荒削りではあるものの、1対1で抜群の強さを見せるディフェンス力、フィジカルの強さとスピードを兼ね備えた身体能力に加え、大学3年生までは積極的にボールに触り攻撃的なプレーを好む選手だったこともあり、左右両足で正確にボールを蹴ることができる技術の高さを発揮した。2年目のシーズンを迎える頃には、水戸ホーリーホックを代表する選手となっていた。
そんな2年目のシーズン途中の夏、J2で輝くプレーを見せていた塩谷選手にJ1クラブからオファーが届く。オファーを出したのは、清水エスパルス、大宮アルディージャ、サンフレッチェ広島の3チームだった。

サンフレッチェ広島行きを後押しした柱谷哲二監督

塩谷選手にとって選択肢は、水戸ホーリーホック残留も含めて4つ。ステップアップの為にJ1クラブへの移籍を考えたとしても、チャンスがあるのは清水エスパルスか大宮アルディージャ。サンフレッチェ広島はこのシーズンから森保一監督が就任し、悲願のリーグ初優勝に向けて突き進んでいるタイミング。出場機会はあまり無いかもしれない。
ここで思い悩む塩谷選手を後押ししたのは、やはり柱谷哲二監督だった。塩谷選手が日本代表にも手が届く選手になると信じていた柱谷哲二監督は、日本代表時代にチームメイトだった森保監督の人間性や指導力も含め、信頼できるとしてサンフレッチェ広島行きを勧めた。
水戸ホーリーホックの戦力を考えると移籍は厳しい状況だが、チームの財政やモチベーションを考えるとJ1トップのチームに選手を移籍させるのは決してマイナスではない。
サンフレッチェ広島に加入してからの塩谷選手の活躍は、1対1の強さをベースにした守備だけでなく抜群の攻撃力も発揮。柱谷哲二氏が見抜いたとおり、日本代表にコンスタントに選ばれる存在になったのだ。