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正念場の本田圭佑、背番号『4』は再び輝けるか

2017 1/23 14:39きょういち
サッカー 本田
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進む世代交代

 サッカーW杯はロシア大会を翌年に控え、日本代表は世代交代が進んでいる。長らく海外で活躍してきた香川真司、岡崎慎司のレギュラーは保証されたものではなくなった。そして、日本代表の顔として引っ張って来たこの男も例外ではない。

 背番号「4」をまとう本田圭祐。

 所属するイタリア1部セリエAの名門、ACミランでは試合に出ることすらままならず、試合勘の鈍りを指摘する声もある。もはや、ACミランの戦力とはなっておらず、中国への移籍交渉が進んでいるとの一部報道もある。

 しかし、まだ30歳。もう一度輝けるチャンスはあるし、まだ日本にその力は必要だ。そう思わせるだけの魅力が本田にはある。

23歳の本田は逆境と闘っていた

 本田を取材したのは、南アフリカW杯直前の2010年1月だった。地中海の青と、建物の白がまぶしい、スペインのアンダルシア地方に本田はいた。

 その時の本田は23歳。オランダのVVVフェンロから、ロシアのCSKAモスクワに移籍したばかりだった。日本代表ではほとんど結果を出しておらず、今のような中心的な存在ではなかった。だが、オランダでの活躍から、切り札への期待が高まっていた時期でもあった。

 CSKAモスクワに合流して1カ月ほどの時で、スペインは欧州チャンピオンズリーグに向けた合宿地だった。

 ロシアのチームは閉鎖的なのか、なかなか練習を見せてもらえなかった。それどころか、どこで練習をするかも教えてもらえず、レンタカーでチームのバスをつけていった思い出がよみがえる。もちろん、練習場には入れてもらえないから、ボール拾いをしていたら、入れと言われた。

 そこで見た本田は、およそレギュラーになれるような扱いを受けていなかった。

パスを回してもらえない

 本田と言えば、無回転のフリーキックがあり、セットプレーのキッカーのイメージがあるが、キッカーの2番手か3番手として練習をしていた。

 日本語の通訳はいなかった。時には練習内容が分からず、右往左往していた。紅白戦ではフリーでいても、パスを回してもらえない。「ヘイ」と自己主張する声が、むなしく響いていた。

 「こっちのプレーの引き出しを知ってもらっていない。試合で活躍しないと信頼が得られない」

 本田は苦しんでいた。
 でも、ただ嘆くだけではなかった。

日々勝負

 セットプレーの練習では、首脳陣の考えが違うと思えば、英語で食い下がった。勝ち気なコメントで知られる本田の真骨頂だった。「はっきりと言わないといけない」。それを、新しいチーム、それも海外のチームでできる。

 パスは来なくても、認めてもらうために、練習では先頭を積極的に走った。

 「一日一日が勝負」

 そう語っていたのを思い出す。

 仲間がいいプレーをすれば、誰よりも大きな声でほめた。そして、意外と思われるかもしれないが、チームメートと積極的にコミュニケーションをとった。自分を売り込むためだ。

 練習後はくたくただった。午後にホテルの部屋に電話をかけると、寝ぼけた声が受話器の向こうから聞こえてきた。本当に日々、全力だった。

リスクを取らなければ前には進めない

 話は前後するが、CSKAモスクワに移籍する前にいたオランダのVVVフェンロは当時、本田のチームだった。本田が攻撃をつかさどり、本田を中心に回っていた。

 でも、彼はそんな立場をあっさり捨てた。なぜなのか聞いた。

 「ステップアップするにはフェンロにいても無駄」
 「リスクはあるが、リスクを乗り越えた時にはそれなりの見返りがある。それに挑戦したいのが僕の性格」

 そんな答えだった。強いなと思った。内弁慶の日本人のイメージはみじんもなかった。こんな日本人が海外で成功してほしい、いや、成功するだろうと思った。

 そして、2010年W杯。本田は2得点を挙げ、日本のベスト16入りへ貢献。日本のエースとなった。

 そんな本田を見てきたから、このまま引き下がるとは思えない。もちろん、全盛期の身体能力はないかもしれない。でも、彼の屈強な精神力は、世界で戦う日本代表には、まだ欠かせない。