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プロレス界「最凶のタフ野郎」スティーブ・オースチン選手の魅力を解説

2017 1/18 10:02
リングⒸShutterstock.com
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Photo by cigdem/Shutterstock.com

1990~2000年代にかけて一時代を築いた米国の人気プロレスラーといえばスティーブ・オースチン選手でしょう。 体制にたてつくキャラは、人々の生活に対する不満の代弁者となり、一躍スーパースターへと上りつめることになります。 そんなオースチン選手のプロレス人生をまとめました。

アメフト選手だった大学を中退、夢だったプロレスラーに

1964年生まれのオースチン選手は、もともと北テキサス大学でアメフト選手として活躍している優等生でしたが、卒論作成に嫌気がさしたことで突如中退。一度は就職するものの、子どもの頃の夢だったプロレスラーを目指すことになります。
ダラスでプロレススクールを開いていたクリス・アダムス氏の教えを受けて、1989年にデビュー。当初は本名のスティーブ・ウィリアムスという名前で活動していたものの、同名のレスラーがいたため、当時の人気テレビドラマとテキサスの州都にちなんで「スティーブ・オースチン」に変更しています。

WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)への不満をぶちまけてブレーク

スティーブ・オースチン選手が本格的にブレークしたのは、WWF(ワールド・レスリング・フェデレーション)(後のWWE)に移籍した1995年です。1989年のデビュー当時はベビーフェイス(善玉役)として活動していたものの、人気に火がつかずヒールへ転向。1991年から契約していたWCWでは、世界タッグ王座を獲得するなどの活躍を見せますが、怪我を理由に1995年に解雇の憂き目にあいます。
しかし、あらゆるスタイルのプロレスを受け入れているECW(エクストリーム・チャンピオンシップ・レスリング)にスポット参戦すると、WCWへの不満をぶちまけたスタイルが人気を呼び、WWFとの契約が実現しました。1992年には新日本プロレスでも参戦し、G1 CLIMAXで武藤敬司選手と、NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)ヘビー級王座で蝶野正洋選手とも対戦しています。

「反体制」キャラがファンの心をつかむ

WWFで見せたストーン・コールド・スティーブ・オースチン選手のヒールキャラクターである「反体制」は、「気に入らないやつはベビーフェイス、ヒールを問わずぶっ飛ばす」という単純かつ痛快な設定でした。
これが日々の抑圧された生活を強いられているプロレスファンの心に火をつけ、リング上でもコーナーポストに登って顔にかけるようにビールを飲み、相手に中指を突き立てる決めポーズなどによって、また多くのファンの心をつかみました。

1990年代後半のスティーブ・オースチン選手はスーパースター

1990年代後半のWWFはスティーブ・オースチン選手がけん引したことで人気がさらに高まります。1996年のキング・オブ・ザ・リングで優勝した際には、「お前のケツをぶっ飛ばしたと書いてある」と決勝の相手をコケにした「オースチン選手伝3章16節」が大流行。
1997年は当時ベビーフェイスとして人気を博していたスター、ブレット・ハート選手との名勝負や、1998年のヘビー級王座の初戴冠、1999年にはベビーフェイスのスーパースター、ザ・ロック選手や悪のオーナー、ビンス・マクマホン氏と対峙する姿に、ファンは権力に抗うオースチン選手と自身の姿をダブらせて一層熱狂しました。

2003年に事実上引退したスティーブ・オースチン選手

WWFで絶大な人気を誇ったスティーブ・オースチン選手ですが、1997年に試合中に首を負傷したことが引き金となり、1999年後半からは長期欠場を余儀なくされます。
2003年のレッスルマニアでは、オースチン選手がベビーフェイス化して、ヒール化したザ・ロック選手と対決する設定で対峙しましたが、この時点で体はボロボロ。ロック選手が勝利し、オースチン選手のレスラー人生に事実上の幕が下ろされました。2009年にはWWE殿堂に選出され、「夕日に向かって歩く」と引退宣言をしました。

まとめ

痛快なヒールキャラクターでWWE屈指のスーパースターとして君臨したスティーブ・オースチン選手。 引退宣言後もゲストホストやレフェリー役としてリングに登場していますが、彼に対する声援は現役選手よりも大きく、存在感は健在です。 現在は映画俳優としても活躍しており、「第二の人生」にも注目が集まります。