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青木功選手は「世界のアオキ」として君臨したレジェンドゴルファー

2017 4/12 20:20kinsky
青木功
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Ⓒゲッティイメージズ

青木選手は14歳でゴルフと出会い、苦節の末22歳でプロ入り

青木功選手は千葉県我孫子市の出身で、生まれは1942年の現在74歳。青木選手は中学で野球部に入りピッチャーとして活躍したが、県大会出場を掛けた試合でサヨナラ負けを喫し、悔しさの余り野球を止めてしまった。
そして直ぐにゴルフと出会う。地元の我孫子ゴルフ倶楽部で同級生であり、後に共にプロとなる鷹巣南雄さんと一緒にアルバイトを始めたのがきっかけだった。その後、我孫子中学卒業とともに関東で最初の河川敷コースである東京都民ゴルフ場にキャディとして就職する。
当時、我孫子にはプロゴルファーとして活躍していた林由朗さんがおり、青木さんは林さんの門下生としてゴルフの腕を磨いた。そして、1958年に師匠の林さんの推奨で我孫子ゴルフ倶楽部へ移籍。さらに3年後には飯能ゴルフ倶楽部へ移り、プロゴルファーを目指した。青木さんが初めてプロテストにチャレンジしたのは20歳の時だったが、僅か1打差で不合格になる。
そしてプロテストに合格したのはその2年後の1964年22歳の時だった。プロテストに見事合格するも、全く勝利には見放され予選落ちの連続だった。しかし、他のスポーツ選手の厳しいトレーニングに触発されて肉体改造を図り、1971年の関東プロゴルフ選手権で日本ツアー初優勝を飾り、輝かしいスタートを切る。

遅咲きの29歳で初優勝。尾崎選手らとゴルフブームを盛り上げる

青木選手はプロ入りしてから7年目、29歳での初優勝する。遅咲きだったが、その2年後の1973年には持ち玉をフェードからフックボールに変えたことで確実性を磨き、ツアー5勝を飾り、日本のトッププロの座に上りつめた。青木選手は当初、波が激しいゴルフだったが、パターの技術を磨くなど粘りのゴルフを身上とし、1976年には見事、賞金王に輝いた。
しかしこの頃、プロゴルフ界にはプロ野球から転向してきた尾崎將司選手が現われ、青木選手の前に大きく立ちはだかる存在となっていた。その後、青木選手より少し若い中嶋常幸が頭角を現し始め、プロゴルフ界ではAON(青木・尾崎・中島)と呼ばれる一時代を築く。テレビでもトーナメントツアーが放送されるなどゴルフ人気は高まってゆく。
そうした中で青木選手は1978年から1981年にかけて4年連続日本ツアー賞金王に輝き、前後して海外にも活躍の場を広げていった。青木さんが本格的に海外参戦したのは1974年。初めてマスターズに出場したが、予選落ちという屈辱を味わう結果となっている。

世界マッチプレーで優勝。主戦場を米国に移し帝王との死闘で名を馳せる

青木選手は初めて出場したマスターズで結果を出せず、2年後の1976年にも再びマスターズ出場を果たすが、予選は通過するも28位という結果に終わっている。同じ年には全英オープンにも出場しているが予選落ちだった。しかし、青木選手は1978年に英国で開催されたヨーロピアンツアーの「世界マッチプレー選手権」でニュージーランドのシモン・オーエン選手を下し、海外初優勝を飾ったのを機に世界での活躍を飛躍させる。
青木選手は翌年の世界マッチプレーにも準優勝し、マッチプレーは青木選手と相性の良い大会になった。また、同大会の準決勝ではホールインワンを達成し、副賞で豪華別荘を獲得したことが話題になった。この大会で大きな名声を得た青木選手は、次の目標としてアメリカのPGAツアー優勝に焦点を置く。そして、1980年の全米オープンにチャレンジして、当時「帝王」としてゴルフ界に君臨していたジャック・ニクラウス選手とゴルフ史に残るほどの名勝負を繰り広げた。
ニクラウスは初日から好調で、青木選手に5打差を付けて、独走への弾みを付ける。しかし、青木選手は2日目以降徐々に追い上げ、3日目を終わった時点でニクラウスと並んで首位に立つ。そして迎えた最終日、2人の戦いはもつれにもつれ、最終ホールまで大接戦となるが、ニクラウスが僅かの差を守り切って優勝する。
しかし、まるでマッチプレーのような2人だけの戦いになった青木選手の善戦で「世界のアオキ」という名声を得るのだ。この試合によって青木選手は「東洋の魔術師」や「グリーン上の魔術師」などと呼ばれる存在になった。

ハワイアンオープン劇的な逆転優勝を飾り米国PGA初制覇

青木選手は1981年から米国ツアーに参戦できる正式なライセンスを取得し、翌年には日本人で初めてシード権を獲得した。そして、1983年の年が明けて間もなくのハワイアンオープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝という快挙を成し遂げる。そのドラマチックな幕切れに、日本中のゴルフファンは沸き立ち、喝采を送った。
最終日、最終組でラウンドしていた青木選手は18番ホールを迎えた時点で2位だった。前の組でジャック・レナー選手がバーディーを奪ってトーナメントリーダーになっていた。逆転優勝を狙った青木選手は最終18番ホール・パー5でドライバーショットをミスしてラフに打ち込む。第2打も力が入りすぎてまたまたラフへ。残りは128ヤード。ここからグリーンに乗せてカップ近くまで寄せて1パットで沈めればバーディーでプレーオフに持ち込まれる。
第3打、ピッチングウェッジで打った青木選手のボールはグリーン上にストンと落ちて、吸い込まれるように直接カップイン。見事な劇的チップインイーグルで逆転優勝を飾った。この瞬間の青木選手の歓喜の表情と、呆然とするレナー選手の姿が印象的だった。

JTGO会長、現役ゴルファー、解説者などの多面で今なお活躍

青木選手はその後も日本と海外で活躍し、日米欧豪の4ツアーで優勝という偉業も成し遂げた。1992年からは日米のシニアツアーに参戦して、米国では同年の「ネーションワイド選手権」で優勝し、国内では1994年から1997年にかけて「日本シニアオープンゴルフ選手権」の4連覇を達成するなど、シニアゴルフ界をけん引した。
米国シニアツアーでは通算9勝を挙げ、2004年には日本人男子ゴルファー初の世界ゴルフ殿堂入りを果たした。また、2013年には日本でもプロゴルフ殿堂入りし、2015年には男子プロゴルファーとしては3人目の叙勲となる旭日小綬章が授与された。2016年にはJGTO(日本ゴルファー機構)の会長に就任し、現役として同年の「中日クラウンズ」に出場し、73歳241日でのツアー参戦最年長出場記録を作った。
青木選手は全米オープンや全英オープンなどの解説としても親しまれており、コースの説明や攻略法についての解説などが好評だ。ゴルフに関する著作も数多く、ゴルフ界以外の人物との交流も活発で、現在もゴルフ界の中心に存在している名選手であり名キャラクターだ。