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メジャー移籍のパイオニア!野茂英雄選手【球史に名を残した偉人達 】

2017 8/25 10:07cut
野球ボール,ⒸShutterstock.com
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史上最多となる8球団競合のドラフト会議

野茂英雄選手はアマチュア時代に、古田敦也選手(元ヤクルト)らとともにソウルオリンピックへ出場、日本代表の主力投手として銀メダルに貢献した。そして1989年のドラフト会議では一番の目玉として注目を浴びており、何球団が野茂選手に入札を行うのかに興味は集まっていた。

ドラフトに初めてテレビモニターが採用された年でもある。このドラフトで野茂選手へは8球団(近鉄、オリックス、日本ハム、ロッテ、大洋、阪神、ヤクルト、ダイエー)が入札。2016年ドラフト終了時点でも破られていない史上最多の競合数となった。(小池秀郎選手が1990年にタイ記録を達成)

抽選の結果、近鉄が交渉権を獲得。このとき、野茂選手は「フォームをいじらないこと」を入団の条件として球団に伝えており、仰木彬監督はこれを快諾し野茂選手は入団に至っている。野茂選手以外にもこの年のドラフトは多くの名選手が誕生していた。佐々木主浩選手(大洋)、小宮山悟選手(ロッテ)、新庄剛選手(阪神)など後のメジャーリーガーも同期ドラフトだ。

仰木監督が退任後に就任した鈴木啓示監督から、フォームを改造されそうになったことも、後に近鉄を退団するきっかけの一つとなっている。

ルーキーイヤーから圧倒的な存在感

史上最多となる8球団競合の末にプロ入りを果たした野茂選手。1年目からその実力を発揮してくれた。野茂選手は29試合に先発し18勝(8敗)、287奪三振、防御率2.91で最多勝、最高勝率、最多奪三振、最優秀防御率のタイトルを獲得。新人王、MVP、沢村賞も受賞。1年目から圧倒的な存在感を放ち、近鉄のみならずプロ野球界のスタートなった。

「2年目のジンクス」を感じさせることなく2年目も1年目と同様の活躍をみせ17勝(11敗)、287奪三振で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得した。以降4年目の1993年まで4年連続で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得することになる。

5年目のシーズンとなる1994年は野茂選手は故障もあり入団以来、最少の登板数となる17試合に終わり、初めて二ケタ勝利に届かない8勝(7敗)と不本意な成績だった。4年連続で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得していたが、これらの連続記録も途切れてしまった。

苦難のメジャー移籍

野茂選手は1994年オフにメジャー移籍を果たす。その道のりは決して簡単なものではなかった。
契約更改に野茂選手は代理人を起用することを球団に要望。しかし、近鉄は要望を拒否。2017年現在では有資格者による代理人の起用は認められているものの、当時は認められていなかった。

野茂選手は近鉄との交渉を重ねる上で球団に対する不信感が募り、1995年シーズン近鉄でプレーしないことを決断。球団は野茂選手を「任意引退」扱いすることとなった。文字通り、自由に複数球団と交渉しプレーすることのできる「自由契約」と「任意引退」は違う。「任意引退」としたのは日本でプレーするには保有権を有する近鉄となるようにした措置である。

しかし、「任意引退」の効力がメジャーリーグを始めとした海外の球団に及ばないという抜け穴があった。これも、野茂選手のメジャーリーグ挑戦を決意するきっかけの一つとなっている。(2017年現在は改正されており、海外のプロ野球チームとも契約ができない)

野茂選手は任意引退を経てメジャーリーグ移籍を決断。翌年2月にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶことに成功。年俸は推定1億4000万円から980万円と大幅に下がったものの第一歩を踏み出した。

1年目に「NOMOマニア」誕生

野茂選手がドジャースへ移籍を果たした1995年。この年は前年から続くストライキの影響で開幕が1カ月ほど遅れていた。チーム7試合目となる5月2日に先発のマウンドに登った野茂選手。マッシー村上選手(ジャイアンツ)以来31年ぶり2人目となる日本人メジャーリーガー誕生の瞬間でもあった。この試合で5回無失点、奪三振7、与四球4と勝ち投手にはなれなかったものの、上々のスタートを切ったのだ。

7試合連続で勝てなかったが、デビューから1カ月後の6月2日から6連勝。オールスターゲームにも選出されナショナルリーグの先発投手も務めることとなった。この年の野茂選手は28試合に登板し13勝6敗、191.1回を投げ236奪三振をマークし最多奪三振のタイトル、新人王を受賞しアメリカで大人気となった。野茂選手のファンの総称として「NOMOマニア」なる言葉も生み出されている。

近鉄との確執からメジャー移籍を果たし、1年目でみごとに結果を残した野茂選手。この功績がイチロー選手(マーリンズ)ら後進への道しるべとなったことは間違いない。

両リーグでノーヒッターを達成

野茂選手は日米通算201勝(日本:78勝、アメリカ:123勝)を達成し名球会入りも果たしている。日本時代には入団から4年連続で最多勝、最多奪三振を獲得するなど数々の実績を残す。

メジャーリーグでも1年目から活躍し二ケタ勝利を達成。最多奪三振、新人王と期待以上の活躍を見せてくれた。そんな野茂選手だが、タイトル意外にも大きな偉業を成し遂げている。

メジャーリーグで史上4人目となる両リーグでのノーヒッター(ノーヒットノーラン)を達成しているのだ。1度目はメジャー移籍2年目となる1996年9月17日のロッキーズ戦だった。悪天候により開始が2時間遅れとなったこの試合、野茂選手は4つの四球を出したものの安打、得点は許さずに日本人投手初のノーヒッターとなった。ロッキーズの本拠地であるクアーズフィールドは、高地にあることで打球が飛びメジャー有数の「ヒッターズパーク」でもある。球場が開場以来初のノーヒッター達成者でもある。

2度目はボストン・レッドソックスに移籍後の2001年だった。移籍初登板となった4月4日のボルチモア・オリオールズ戦で3つの四球をだしたが、ノーヒットに抑え自身2度目となるホーヒッターを達成したのである。

野茂選手はナショナルリーグのドジャース、アメリカンリーグのレッドソックスでノーヒッターを達成し球史に名を残したのだ。

このように野茂選手は、ドラフト、日本時代、メジャーと様々な実績を残している。また、近年における日本人メジャーリーガーの先駆けとなった存在だ。プロ野球の世界でコーチ、監督などは行っていないが社会人野球クラブ「NOMOベースボールクラブ」を設立しており、プロ野球界への人材供給が期待される。