江川選手問題が勃発した1970年代後半のドラフトを振り返る | SPAIA

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江川選手問題が勃発した1970年代後半のドラフトを振り返る


1975年:プロ入り断念と噂された篠塚選手が巨人へ入団

赤ヘル旋風が巻き起こり、球団創設以来初めて広島が日本一となった1975年。11月2日に訪れた広島の歓喜から2週間ほど経った11月18日に、ドラフト会議が行われた。この年、注目を浴びていたのは同志社大学の田尾安志選手、銚子商業高の篠塚利夫選手(現和典)だ。

田尾選手は同志社大時代に二刀流として活躍。日米大学野球の日本代表にも選ばれるなど、注目の存在となっていた。また、篠塚選手は持病があるために「プロ入り断念」といった報道も出ており、各球団の戦略に注目が集まっていたのだ。また、全体的に即戦力となる選手は少ないとされており、各球団ともに指名の戦略が問われる年であった。

ドラフトが始まると5球団目までが投手を選択。6球団目のヤクルトが篠塚選手でも田尾選手でもなく、高知高の杉村繁選手を指名する。杉村選手へ現役選手として大きな実績を残すことができなかったものの、指導者として開花。横浜では内川聖一選手、ヤクルトでは山田哲人選手を育てている。

ヤクルトに次ぐ指名順だった巨人は、篠塚選手を1位で指名。入団を果たし首位打者を2度獲得するなど安打製造機として巨人を引っ張った。

注目の田尾選手を指名したのは中日だった。1年目から試合に出場し新人王を獲得。西武、阪神と3球団を渡り歩き現役通算1560安打を記録し2005年には楽天の初代監督も務めている。

その他には広島1位で名球会入りを果たしている北別府学選手、阪神2位では入団拒否をしその後アマチュア球界で名を馳せた鍛治舎巧選手も指名された。駒澤大学の中畑清選手も3位で巨人入りを果たしている。

1976年:「サッシー」こと酒井圭一選手はヤクルトへ

夏の甲子園において長崎・海星高をベスト4に導いた「サッシー」こと酒井圭一選手がドラフトの注目だった。その、酒井選手は1番目の指名順だったヤクルトが真っ先に指名。高卒ルーキーながら1年目から先発で登板するなど期待を掛けられたが、1990年に引退するまでにわずか6勝(215登板)。期待に応えることはできなかった。

また、東海大相模高の原辰徳選手も注目を浴びていたが「東海大進学」を表明していたため、指名する球団はなく無風のドラフトとなる。

ドラフト1位で指名された中日・森繁和選手、日本ハム・黒田真二選手、南海・武藤邦一選手の3名が入団拒否。1位指名選手3名が入団拒否をしたのは初のできごとだった。

この年の下位指名で活躍を果たした選手には巨人・5位の松本匡史選手がいる。「青い稲妻」の愛称で親しまれ、プロ通算342盗塁をマークした。

1977年:法政大・江川選手をクラウンライターが指名

東京六大学通算47勝を挙げた「怪物」こと江川卓選手にとって、2度目のドラフトイヤーとなった1977年。4年前の作新学院高校時代は、阪急から1位指名を受けたが「進学表明」していたこともり入団拒否していた。強い巨人志望を打ち出していたことで他球団は指名しないと思われていたが、指名順1位のクラウンライターが強行指名。結果、江川選手は入団を拒否し「空白の一日」へと繋がっていく。

この年は江川選手一色のドラフトとなっているが、中位・下位指名からも後の名選手は多く生まれている。広島・4位の達川光男選手、ヤクルト・4位の尾花高夫選手が後の監督へ。また、大洋は3位で遠藤一彦選手、6位で屋敷要選手を指名し主力選手へと成長させた。

クラウンライターと江川選手の交渉は決裂。江川選手は南カリフォルニア大学で練習を行っていたが、翌1978年ドラフト会議の前々日に帰国。ドラフト前日に巨人と契約を行うという前代未聞の行動を起こす。これは当時、球団の交渉権はドラフトの前々日までとなっていたため「ドラフト前日は交渉可能」と巨人が主要したためだ。結果、江川選手の契約は認められず1978年のドラフト会議へと舞台は移すことになる。

1978年:巨人がボイコットし江川は阪神が指名

江川選手問題で巨人がボイコットした1978年のドラフト会議からは、入札方式に変更している。このドラフトでは、1位指名の南海、阪神、ロッテ、近鉄の4球団が江川選手へ入札、抽選の末に阪神が交渉権を獲得した。
江川選手は阪神への入団を拒否し、最終的に阪神へ入団後にトレードという形で巨人へ移籍。一連の騒動は終結した。しかし、この一件で江川選手にはダーティーなイメージが付いてしまったことは否めない。

江川選手と同じく4球団が入札したのは森繁和選手だ。西武、ヤクルト、中日、日本ハムによる抽選の末に西武が交渉権を獲得。9年間で57勝(62敗)82セーブを挙げる活躍を見せ、2017年に中日の監督へと就任している。

前年(1977年)に続いて江川選手の話題で持ちきりとなったドラフト会議だが、一番の出世頭はロッテが3位で指名した落合博満選手だ。ロッテに入団後3度の三冠王を獲得、中日の監督としても常勝軍団を築き上げた名選手、名監督は江川選手の陰に隠れているが同期入団なのだ。

また、巨人を除く11球団で指名した選手は合計44名。ドラフト史上最小の指名人数となっている。

1979年:歴代最多の6球団競合となった岡田彰布選手

1979年のドラフト会議で目玉となっていたのは早稲田大学の主砲・岡田彰布選手だった。岡田選手には当時のドラフト記録となる6球団(阪神、西武、南海、ヤクルト、阪急、近鉄)が1位で入札。阪神が江川選手に引き続いて当たりくじを引き交渉権を獲得した。
岡田選手は初年度に新人王を獲得し、通算247本塁打を放つ活躍を見せるなど選手としての実績を残し、阪神、オリックスの監督も務めている。

また、岡田選手に次いで人気を集めたのは木田勇選手だった。巨人、大洋、日本ハムの3球団が入札し日本ハムが交渉権を獲得。在京セ・リーグを希望していたが、25歳という年齢もあり日本ハムへ入団。1年目から22勝を挙げMVPに輝くなどの活躍を見せた。

高卒組では春のセンバツで準優勝を果たした浪商高のエース・牛島和彦選手が中日1位、「ドカベン」こと香川伸行選手が南海2位で指名されバッテリーともに上位でプロ入りを果たしている。

1970年代後半でドラフト指名を受けた選手達は全員がすでに現役を引退している。指導者になった選手も多く2017年現在のプロ野球界を支えてきたことは間違いない。今後、これらの選手達の後進がプロ野球界を背負ってくれることに期待したい。

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