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打率3割を6度達成のヒットメーカー!中島宏之選手

2017 6/30 12:56cut
野球
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西武時代は打率3割を6度記録

2000年のドラフトで西武ライオンズから5位で指名され、入団に至った中島裕之(現宏之)選手。全国的には無名の兵庫県立伊丹北高校で甲子園出場は無っかったものの、通算43本塁打を放ち、投手としても活躍していた。一軍デビューは入団2年目となる2002年シーズンだった。わずか4試合ではあるが、7打席のチャンスを与えられ初安打もマーク。翌2003年に44試合に出場するなど、順調にステップアップを果たしていた。
中島選手がレギュラーとなったのは、2004年のことだった。2003年オフに松井稼頭央選手がメジャーリーグ移籍を果たしたことで、遊撃手のポジションが空き、スタメンを奪い取ったのだ。この年全133試合に出場し、打率.287、27本塁打、90打点、18盗塁をマーク。2005年からは打率3割を5年連続で継続するなど、好守においてチームに貢献し、リーグを代表する遊撃手となった。
西武では、2012年シーズンまでプレーし6度の打率3割を記録。2008年(.410)、2009年(.398)と2度、最高出塁率のタイトルを獲得している。

首位打者争いの常連

打率3割を6度記録していた中島選手は、最高出塁率のタイトルこそ獲得していたが、意外にも首位打者に輝いたことはない。初めて首位打者争いを演じたのは2008年だった。
東北楽天ゴールデンイーグルスのリック・ショート選手と、シーズン最終盤まで激しい争いを繰り広げていた。最終戦が西武と楽天の直接対決と言うこともあり、その時点で楽天は、打率2位だった中島選手との勝負を避けるというのが大方の見方だった。
しかし、楽天ベンチは中島選手との勝負を避けることはせずに勝負。中島選手は本塁打を含む5打数2安打と結果を残したが、リック選手にわずか及ばず首位打者にはなれなかった。悔しさもあったはずだが、中島選手は後に「勝負してくれてうれしかった」と語っている。
一方で、2012年も千葉ロッテマリーンズの角中勝也選手と首位打者争いを演じ、直接対決では勝負を避けられた。この年は敬遠気味のボールに空振りをするなど無言の抗議を行っている。
このように、ほんのわずかな差で中島選手は首位打者を獲得できなかったのだ。

ポスティングを申請するも破談

2011年シーズン、中島選手は全144試合に出場し打率.297、16本塁打、100打点の成績を残す。優勝こそならなかったものの、自身初の100打点をマークしチームに貢献。念願のメジャーリーグ移籍を目指すべくポスティング申請を行うことになる。
ポスティングで中島選手を落札したのは、250万ドルを投じたニューヨーク・ヤンキース。旧システムにおけるこの金額は、ダルビッシュ有選手(レンジャーズ)の5170万3411ドルには遠く及ばない。野手に限るとシアトル・マリナーズがイチロー選手を落札した1312万5000ドル、ミネソタ・ツインズが西岡剛選手を落札した532万9000ドル、タンパベイ・デビルレイズ(現レイズ)岩村明憲選手を落札した450万ドルに次ぐ金額となった。
また、同年に中島選手と同じく、ポスティング申請を行った青木宣親選手も、ミルウォーキー・ブルワーズから250万ドルで落札されている。このように、当時の評価は決して高いものでは無かった。
ヤンキースと中島選手の代理人であるグレグ・ゲンスキー氏が交渉を進めるが、期限の直前になってもまとまらない。ヤンキース側の要求は、控え野手としての契約で年俸は80万ドル程度、契約から6年間保有権は手放さないといったものだった。
中島選手側は、金額面より保有権にこだわった。1年目の契約終了後にFAを求めたのだ。それは、ヤンキースの内野陣にはデレク・ジーター選手、アレックス・ロドリゲス選手というスーパースターがおり、レギュラーのチャンスは薄かったからだ。
せめぎ合いが続いたが、交渉期限の28時間前に交渉は打ち切り。ヤンキースへの入団は叶わなかった。たらればではあるが、ヤンキースのジーター選手は、2013年シーズンに故障を発症しわずか17試合の出場にとどまっている。また、ロドリゲス選手も禁止薬物使用で出場停止処分を受け44試合の出場だ。中島選手がヤンキースに入団していれば、2年目のシーズンに三遊間で出番はあったのかもしれない。

アスレチックス入団するもメジャー昇格はならず

ポスティングによる移籍が破談となった中島選手だが、2012年シーズン終了後に海外FA権を行使し、再びメジャー移籍を目指す。その中島選手と契約を果たしたのは、オークランド・アスレチックスだった。アスレチックスはGM(ゼネラルマネージャー)であるビリー・ビーン氏が映画『マネーボール』で知られており、日本でも馴染みがあるチームだ。
また、松井秀喜選手がニューヨーク・ヤンキース、ロサンゼルス・エンゼルスに次いで所属した球団でもある。その入団会見で中島選手は、アスレチックスに決めた理由を「ビーンがかっこいいから」と話しメディアで報じられ話題にもなった。
大事な初年度のスプリングトレーニング、オープン戦で結果を残せなかった中島選手は、故障も相まって開幕は故障者リスト入りとなった。その後、復帰するがメジャー昇格はならず、年間を通じてマイナーリーグでプレー。90試合に出場し打率.283、4本塁打、34打点の成績で1年目を終える。
2年目はマイナーリーグで85試合に出場し打率.247、6本塁打、35打点の成績を残すが、またしてもメジャー昇格はならなかった。打撃面でなく内野守備の粗さもあり、総合的な判断を下されマイナー暮らしとなったのだ。

オリックスでもう一花!

メジャー昇格を果たせなかった2014年シーズンが終了し、中島選手は日本へ戻ることを決断。この決断に古巣である西武、阪神タイガース、オリックス・バファローズなどが獲得に乗り出した。各球団がラブコールを起こす中、中島選手が選んだのは、オリックスだった。オリックスは、3億5000万円(推定)の3年契約を中島選手に提示。中島選手は入団を決意したのだ。
初年度となる2015年は117試合に出場し、打撃面では打率.240、10本塁打、46打点の成績を残す。西武時代のような3割近い打率を残すことはできなかったものの、出塁率.342と四球を選ぶ選球眼は磨きが掛かっていた。
2016年シーズンは故障もあり、フルシーズンの出場はできなかったが96試合に出場し、打率.290、8本塁打、47打点。夏場以降は打率3割を超える打撃を見せ復調をアピールし、2017年シーズンへの期待を持たせてくれた。しかし、年俸に見合った活躍とは言い切れず、更なる活躍が見込まれている。
2017年シーズンで3年契約は切れ、今後の去就が注目される中島選手。ベテランではあるが、1982年生まれとまだやれる年齢だ。もう一花咲かせ、頼れるベテランとしてチームを支える活躍てくれることに期待が掛かる。