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ミスター赤ヘルこと山本浩二選手の現役時代【球史に名を残した偉人達】

2017 6/28 09:44cut
野球,ヘルメット
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広島出身!法政大学で大活躍

広島といえば「ミスター赤ヘル」の名を轟かせ、広島のヒーローともいえる山本浩二氏だが、それは広島生まれ広島育ちであり、被爆二世でもあるために、より広島の人々に親しまれやすかったのかもしれない。
幼い頃の山本少年は、元軍人だった父に連れられ、当時広島カープの本拠地だった県営球場へ通ったとのちに語っている。当時の広島は「復興への明るい材料」。貧乏球団だったことは否めなく、「おらがカープ」という感覚が皆に広がり、募金活動が始まる。後に当時の野球少年だった山本浩二氏はチームを優勝へ導き、広島カープは復興の名に恥じない球団へ成長していく。
高校野球では無名の広島県立廿日市高等学校へ進み、キャプテンとなった山本選手は甲子園を目指すが、県大会準決勝で名門・広陵高校を前に敗退する。
法政大学に進学した山本氏は、田淵幸一選手、富田勝選手とともに「法政三羽ガラス」と言われ、三人でベストナインに選ばれ、2打席連続アベックホームランを放つなど、大活躍を見せたのだ。東京六大学リーグでは法政大学は、山本氏が在学中3度のリーグ優勝を果たす。
当時の南海ホークスで活躍することになる富田氏が2015年に亡くなったときには、山本氏は「良きライバルであり、あいつがいたから頑張れた」と語り、三羽ガラスの結束がいかに強かったかを感じさせてくれた。

大器晩成型!?広島へ入団

「カープの山本浩二」が誕生した1968年秋のドラフトは、「花の44年組」と言われた球史に残る当たり年だった。ドラフト同期には田淵幸一選手、星野仙一選手、山田久志選手、加藤英司選手、福本豊選手など超大物がずらりと名を連ねていた。
「根っからのカープ少年」だった山本選手は相思相愛でカープ入団、プロ生活がスタートする。
入団一年目、1969年シーズン開幕から、山本選手はレギュラーに定着した。「6番・センター」で開幕スタメンなど120試合に出場し、打率.240、12本塁打、40打点、9盗塁の成績だった。走攻守において「まずまず」の中距離ヒッターと言えるだろう。その後も山本選手は、入団直後からヒーローというわけではなく、5年ほど今ひとつステップアップできない状態が続いた。後に「大器晩成型」と言われるタイプの選手だった。
好転のきっかけをつかんだと思える1974年は打率.275、28本塁打、74打点を記録した。75年に姓名判断を受けてから、登録名を本名の「浩司」から「浩二」に変更し、古葉竹識(こばたけし)監督のもとに4番打者に定着、チームを初優勝へ大きく導くスターに変わっていったのだ。

初優勝からカープ黄金期へ

1975年、4番に定着した山本選手は、オールスターゲームでもアベックホームランを放つなど、衣笠祥雄(きぬがささちお)選手とならんで快進撃を続け、二人のイニシャルから「YK砲」と語られ続けている。広島カープの人気は広島を超えて全国的になり、神宮球場も後楽園球場も赤色に染まる赤ヘルブームが巻き起こったのだ。
しかし、優勝争いを知らない山本選手たちは「一年間の戦い方を知らなかった、辛くて辛くて」とのちに語り、快進撃を続けることがいかに体力的に重いものだったかが感じ取れる。その重圧に耐え、「復興のシンボル」とされた広島カープは、原爆投下から30年目の1975年、初優勝を果たす。「お荷物球団」と揶揄され、優勝争いなど知らなかった球団で、山本選手はチームを引っ張るキーマンとなったのだ。
プレッシャーと戦いながら迎えた10月15日の巨人戦、子供の頃からずっと応援してきた広島カープは初優勝。「やったぞー!」と喜びをあらわにし、大きな声で叫ぶインタビューの姿は今でも語り継がれる。
このシーズン山本選手は打率.319と好成績を残し、首位打者とMVPのタイトルを初めて獲得したのだ。

「ミスター赤ヘル」「オールスター男」

1975年の球団初優勝から、かつては「お荷物球団」とさえ言われていたチームは汚名返上、「勝つためにはどうすればいいかを選手同士がよく話すようになった」と変化が現れ始める。選手同士のお互いに負けたくないという気持ちがキャンプなどでの練習態度にも現れ、チーム内での切磋琢磨が強さを生んだと言える。
山本選手のカープ在籍中、その後もチームは1979年、1980年、1984年、1986年とリーグ優勝を重ね、まさにカープ黄金期を築いたのだ。
また、山本選手は元祖「オールスター男」とも言われ、オールスターには通算14度出場し、14本塁打は歴代一位。27打点は歴代三位タイと、お祭り男ぶりを発揮した。

下降線を引くことのない引退

山本選手の個人記録は本塁打王4回、打点王3回、最優秀選手2回とカープの快進撃に衣笠選手らとともに大きく貢献した。守備では1972年から1981年にかけて10年連続でゴールデングラブ(前ダイヤモンドグラブ)賞を受賞するというセリーグ最多記録の驚くべき受賞歴を誇っている。
山本選手の1986年の引退までに放った安打は2339本。本塁打数は536本と大学出身打者としては日本最多記録だ。これらの偉大な記録と功績から、広島カープ球団史上初めて、山本浩二選手の背番号「8」は永久欠番となった。
その後、広島の監督も務め、1991年には優勝を果たした山本監督。2016年の優勝以前は、すべての優勝に関わっていたカープのスーパーヒーローと言えるだろう。
1986年の引退まで、本塁打数が上がっても打率は衰えず、引退の年にもリーグ優勝を決め、下降線をたどることのない有終の美で引退となった。「まだまだやれる」との声もあったが、本人は大学時代からの腰痛の持病が悪化したための引退と言われる。30代を過ぎて自分の本塁打数の7割を放ち、引退の年にも40歳で27本のホームランを打った、まさに大器晩成型の選手だった。
引退後は解説者として、山本氏のあたたかい広島弁がテレビの野球実況が聞かれるようになった。5度のリーグ優勝、3度の日本一を経験した山本氏はその後、二度の広島カープ監督に就任し、91年にはリーグ優勝を果たした。また、2013年のWBC(ワールドベースボールクラシック)ではサムライジャパンを率い、「山本ジャパン」として挑んだ。
球史に残る偉業で日本野球界を賑わせた山本氏は、2016年には解説者として、25年ぶりの広島カープのリーグ優勝の喜びをかみしめることになった。