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阪神で2度のリーグ優勝!藤本定義監督【球史に名を残した偉人達】

2017 6/28 09:44cut
野球ボール,ⒸShutterstock.com
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巨人で残した功績

1936年から巨人の監督としてチームを率い、7度の優勝を飾った藤本定義監督。1938年秋季リーグから1942年(1939年から1シーズン制)までの5シーズンで5連覇を成し遂げ巨人を退団した。この5連覇は川上哲治監督が達成したV9に次いで、水原茂監督と並ぶ巨人史上2位の記録となっている。
藤本監督が退任した翌年の1943年も巨人はチームの主力だった初代三冠王の中島治康選手が兼任監督となり優勝を飾っている。藤本監督としては5連覇だったが巨人としては6連覇を達成していたのだ。1944年は阪神に8ゲーム差をつけられ2位となり一つの時代が終わった。その後、太平洋戦争もありリーグは中断となったのだ。
巨人の監督として一時代を築いた藤本監督は他球団の監督、コーチを引き受けることはなかった。しかし、藤本監督が巨人退団後に身を寄せていた田村駒治郎氏から誘いを受け、1946年にパシフィックの監督に就任した。藤本にとって4年ぶりの現場復帰となったのだ。
※パシフィック:横浜DeNAベイスターズの傍系球団

巨人退団後の数年間は弱小チームで采配

パシフィックの監督へと就任した藤本監督だが、巨人時代のように勝利を積み上げることはできない。監督復帰初年度は8球団中7位(42勝60敗)と低迷。巨人時代のような中心選手もいない状況で藤本監督は戦力に苦しんでいたのだ。翌1947年はチーム名が太陽ロビンスへと代わり心機一転となった。しかし、8球団中7位(50勝64敗5分)と順位を上げることはできずにこのシーズン限りで退団となってしまう。
パシフィック(太陽ロビンス)では思うような成績を挙げることができなかった藤本監督だが、その間に日本野球選手会の立ち上げを行った。これは、2017年現在にも残っている日本プロ野球選手会の前身に当たる団体だ。プロ野球選手の地位向上を目的として作られたこの会の初代会長になった。
1947年で太陽ロビンスの監督を退いた藤本監督は翌1948年から金星スターズの監督へと就任する。金星スターズは1949年から大映スターズとなる「ラッパの永田」こと永田雅一がオーナーのチームだ。
1946年、1947年と坪内道則監督でリーグを戦ったが結果を残すことができない。そのために、実績のある藤本監督を招聘したのだ。
藤本監督は1948年から1956年までの9年間にわたりチームを率いて3度のAクラス入りを達成させた。
※金星スターズ/大映スターズ:千葉ロッテマリーンズの傍系球団

阪急を経て阪神へ

巨人退団後、数年のブランクを経てパシフィック、大映スターズを率いた藤本監督。両チームでは大きな功績を残すことはできなかった。しかし、それでも藤本監督は他球団から誘いがあるのだ。1956年に大映スターズを退団後、翌1957年からは阪急ブレーブスの監督へ就任することになった。当時の阪急ブレーブスは黄金期を迎える前と言うこともあり、一リーグ制の時代を含めても優勝経験はない球団だった。
阪急での藤本監督は1957年から1959年途中まで監督を務めており、はじめの2年間は4位(71勝55敗6分)、3位(73勝51敗6分)とまずまずの成績を残した。3年目に当たる1959年は27勝55敗2分と振るわず7月26日で監督交代となっている。
その後、1960年には阪神タイガースのヘッドコーチ兼投手コーチへ就任し1961年途中から監督へ就任する。
※阪急ブレーブス:オリックス・バファローズの前身球団

阪神で二度のリーグ優勝

1961年から阪神の監督に就任した藤本監督。ライバルはかつて黄金時代を築き上げた巨人だった。巨人は1961年から自身が監督時代に入団してきた川上哲治監督が指揮を執っており師弟対決となったのだ。
1961年こそ川上監督率いる巨人に後れを取り優勝を逃すが、翌1962年には75勝55敗の成績を残し巨人以外の球団で初めて優勝を達成するのだ。日本シリーズでは本拠地である甲子園球場で2連勝する好スタートを決めるが引き分けをはさんで4連敗を喫し、日本一とはならなかった。
藤本監督が阪神を率いていた際のエースは「ザトペック投法」「二代目ミスタータイガース」と呼ばれた村山実選手、通算320勝を挙げた「投げる精密機械」こと小山正明選手だった。2人の大投手がチームを支えていたのだ。また、1967年には年間401奪三振の日本記録保持者である江夏豊選手も入団してきた。これらの大投手達を従え藤本監督は「打倒巨人」を目指していたのだ。
その後も1964年にリーグ優勝を果たし、日本シリーズに進出するなど1968年に退任するまでの期間で初年度を除き阪神をAクラスへと導いている。また、1950年の2リーグ制以降で阪神を2度優勝に導いたのは藤本監督のみとなっておりその凄さがよくわかる。
阪神を1968年に退団するが監督としての在籍期間29年間は史上最長となっており、長きにわたりプロ野球界に貢献してきたのだ。これらの功績がたたえられ1974年に野球殿堂入りを果たすことになった。

オールスターでの江夏豊選手起用に激怒

藤本監督のエピソードに川上監督とのオールスターゲームにおける出来事がある。1967年のオールスターゲームに新人ながら出場を果たした阪神の江夏豊選手は、セ・リーグの指揮を執る川上監督に3試合連続で登板させられたのだ。
オールスターゲームでは他球団の選手を預かることもあり、ケガをせぬように細心の注意を払い投手起用を行うが、川上監督はライバル球団である阪神の若手有望株である江夏選手をまさかの三連投で起用する。この起用法に藤本監督は激怒。オールスター戦明けの阪神対巨人の一戦で川上監督を呼び出し説教をしたのだ。藤本監督にとって川上監督は自身の巨人監督時代に入団してきた教え子の一人でもある。その教え子に対して厳しく当たった。
この光景を見た江夏選手は「天下の大監督である川上監督が藤本監督の前では直立不動となって説教を受けたのを見て衝撃を受けた」と語っている。
藤本監督は戦前から投手のローテーション起用を唱えており過度な連投を嫌う傾向があったことも大きく影響しているだろう。
藤本監督は巨人以外の監督としても長きにわたり活躍し、阪神では「打倒巨人」を掲げ二度のリーグ優勝を飾る実績を残した。それは大選手達を束ねる人心掌握術があったからに他ならない。今後も藤本監督のような大監督が現れることを期待したいところだ。