野田浩司投手
30代後半以降の阪神ファンならみな、「逃した魚は大きかった」と思っているはずの野田浩司を、あえてトップバッターに持ってきた。野田が在籍した1988年から1992年の成績は35勝52敗(9セーブ)と、凡庸な成績に思える。だがこれは、打線がかなり悲惨だった暗黒時代だったためだ。
1992年は、新庄や亀山といったスター選手に加え、オマリーやパチョレックなど助っ人外人の活躍もあり、シーズン終盤までヤクルトと熾烈な首位争いをした(結果は惜しくも2位)。そしてその年のオフ、「魔のトレード」でオリックスへ移籍。翌年、野田は17勝をあげ、いきなり最多勝を獲得した。1995年には1試合19奪三振の日本記録を樹立する名投手へと覚醒したのだ。
藪恵壹投手
阪神の暗黒時代といえば、もう一人忘れてはならないのが藪恵壹だ。前述の野田と入れ替わるかのように、1993年のドラフト1位で入団した。1994年のシーズンで新人王を獲得。入団1年目から規定投球回数を達成し、ローテーションの一角を守り続けた。
ちなみに、入団2年目から6年連続2ケタ敗戦も記録している。成績から大したピッチャーじゃないと感じてしまうが、暗黒時代の阪神は本当に悲惨だったのだ。なにせ、1985年以降18年間も優勝できなかったチームなのだから……。
藪はその後、2005年にメジャーリーグのアスレチックスに移籍。その後はコーチや解説者として活躍している。間違いなく、古くからの阪神ファンにとって藪はエースピッチャーだと言える。
池田親興投手
池田親興は、1977年に宮崎県の高鍋高校からドラフト4位でタイガースに指名されるも進学を理由に拒否。その後、法政大学、日産自動車へと進んだ。
1983年にはロサンゼルスオリンピック日本代表に選出され、後に西武ライオンズで活躍する台湾代表の郭泰源と投げ合った。そして、その年のドラフト会議で再びタイガースから2位指名され入団した。
1年目、2年目と9勝をあげる活躍をし、1985年にはタイガース21年ぶりの優勝に貢献。甘いマスクから女性ファンに多大な人気があり、タイガースの将来を背負うピッチャーとして嘱望された。
しかしその後は伸び悩み、ダイエー、ヤクルトと渡り歩き、現在ではコーチや解説者として活躍している。実直な人柄で、今も昔もファンから愛されている。
若林忠志投手
阪神で初代18番をつけたのが若林忠志だったことから、阪神の18番が“エースナンバー”といわれるようになったと言っても過言ではない。45歳まで現役を続け、通算成績237勝144敗、先発登板数のほぼ8割を完投している。現在では考えられないほどのタフネスだ。
ハワイ出身で日系2世だった若林は親善試合でたちまち話題となり、法政大学に進学する。その後、職業野球団の設立に伴い、阪神の前身である大阪タイガースに入団。28勝しても最多勝利投手になれない年があるほど、投手優位の時代だったが(同年は巨人のスタルヒンが42勝)、間違いなくタイガースの草創期のエースピッチャーだった。
藤川球児投手
5人目は期待と功労者的な意味合いも込め、藤川球児を紹介して締めくくりたい。藤川の代名詞と言えば『火の玉ストレート』が有名。打者の手前で伸びあがるようにキレイな軌道を描くストレートは、「来る」と分かっていても打てないことから『魔球』とも呼ばれた。
全盛期はクローザーとして活躍し、他球団のファンを嘆かせた。また、2003年と2005年のリーグ優勝にも貢献し、長きにわたり阪神の「守護神」として君臨。2012年に通算200セーブを達成し、オフにメジャーリーグのシカゴカブスに移籍した。
メジャーではケガもあって期待通りの成績を残せなかったが、2015年オフにタイガースに電撃復帰。ファンは『火の玉ストレート』の復活を心待ちにしている。