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数々の本塁打記録を!ベーブ・ルース選手【球史に名を残した偉人達】

2018 1/3 12:56cut
ベーブ・ルース
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二刀流としてのキャリアスタート

1914年ベーブ・ルース選手は、ボストン・レッドソックスでメジャーリーガーとしての経歴をスタートさせた。19歳だったベーブ・ルース選手は投手として2勝1敗、打者として打率.200、0本塁打、0打点と目立つ成績を残していない。目を見張るような成績を残すようになったのは、翌1915年からだ。投手として18勝8敗、防御率2.44。打者として打率.315、4本塁打、20打点の成績を残す。
この成績からもわかるように、当初は投手として才能が開花した。4年連続で2ケタ勝利をマークし、1918年には史上唯一となる2ケタ勝利(13勝)、2ケタ本塁打(11本塁打)を記録している。およそ100年経過した2017年現在メジャーリーグでは2ケタ勝利、2ケタ本塁打を達成した選手はいない。この記録を達成したのは、日本プロ野球界の北海道日本ハムファイターズ・大谷翔平選手ただひとりだ。
1920年にニューヨークヤンキースへ移籍し15年間を過ごした後、1935年にボストン・ブレーブスで現役を終えているベーブ・ルース選手。投手、野手双方でタイトルを獲得し、その他にも数多くの記録を樹立している。

数多くのタイトルを獲得

ベーブ・ルース選手は、投手として1916年に最優秀防御率のタイトルを獲得。44試合に登板し23勝12敗、323.2回を投げ170奪三振、118与四球、防御率1.75の成績だった。44試合中40試合が先発登板であり、完投数は9。これは、どちらもリーグ最多の数字だ。23勝はベーブ・ルース選手とともに殿堂入りを果たした、ウォルター・ジョンソン選手の25勝には及ばなかったものの堂々の3位だった。

【投手としてのタイトル】

最優秀防御率:1回(1918年)
このように投手としても一流の成績を残したベーブ・ルース選手だが、打者としてのタイトルはこの記録をはるかにしのぐ。

本塁打王:12回(1918年、1919年、1920年、1921年、1923年、1924年、1926年、1927年、1928年、1929年、1930年、1931年)
打点王:6回(1919年、1920年、1921年、1923年、1926年、1928年)
首位打者:1回(1924年)

本塁打王12回、打点王6回、首位打者1回を獲得しており、三冠王のチャンスもあった。生涯唯一の首位打者を獲得した1924年は、124打点をマークしたものの、129打点をマークしたグース・ゴスリン選手に5打点及ばず2位に終わっている。これだけのタイトルを獲得しているにも関わらず、ベーブ・ルース選手はMVPの受賞は1923年の1度だけしかない。
MVPの表彰が現在の形と同様になったのは1931年からということと、1921年以前はMVPに相当する表彰が無かったことも影響している。

長きにわたり世界最多本塁打記録を保持

ベーブ・ルース選手は、メジャーリーグの概念を変えた存在でもある。それは豪快な本塁打だ。それまでメジャーリーグでは、安打を繋ぎ得点を奪うスタイルだったが、その常識を破り本塁打を量産した。
1919年にシーズン最多本塁打を24本から29本に更新したのを皮切りに、翌1920年には25本も上乗せする54本塁打を放つ。1921年には59本塁打と自身の記録を5本更新。そして1927年には60本塁打を達成した。この記録は1961年のロジャー・マリス選手に破られるまで34年間にわたりメジャー記録として残っていた。
ロジャー・マリス選手の時代は162試合制だったが、ベーブ・ルース選手の時代は154試合制の時代だった。この試合数の違いを持ち出し「154試合制の最高記録はベーブ・ルース選手だ」という声も挙がっていた。
また、22年間の現役生活で714本塁打を放ち長きにわたり、通算本塁打の世界記録保持者となっていた。ベーブ・ルース選手の記録が更新されたのは1974年のことだ。アトランタ・ブレーブスのハンク・アーロン選手がベーブ・ルース選手の引退から39年後に715号本塁打を放ったのだ。

ワールドシリーズでもチームを勝利に導く活躍!

ベーブ・ルース選手は本塁打王などの個人タイトルだけでなく、チームとしてワールドシリーズ制覇も達成している。レッドソックス時代には1915年、1916年、1918年に3度のチャンピオンに輝く。
その後、トレードでヤンキースへと放出後に、レッドソックスはワールドチャンピオンになれなかったことで「バンビーノの呪い」とも呼ばれていた。この呪いは2004年に解かれ、その後2007年、2013年とチャンピオンに輝いている。2007年は松坂大輔選手、岡島秀樹選手、2013年は上原浩治選手が所属していたため日本での報道もされていた。
ヤンキースに移籍後は1923年、1927年、1928年、1932年と4度制覇。レッドソックス時代を含め7度のワールドチャンピオンとなっている。通算で打率.326、15本塁打、33打点の成績を残し、現在もワールドシリーズ記録となっている1試合3本塁打を2度記録。
また、投手としてもレッドソックス時代の1916年、1918年に3試合登板。3勝0敗、防御率0.87の成績を残している。
このように、ベーブ・ルース選手はレギュラーシーズンだけでなく、ワールドシリーズでも結果を残しチームを勝利に導いていたのだ。

日米野球では沢村選手の前に沈黙

ベーブ・ルース選手は1934年、日米野球のために来日を果たしている。シーズン終了後の11月に、アメリカから船旅でやってきた全米選抜。ベーブ・ルース選手だけでなく、ルー・ゲーリッグ選手、ジミー・フォックス選手などのレジェンド選手も来日し、日本全国を回り18試合を行った。この頃ベーブ・ルース選手は、現役晩年の39歳だった。
この日米野球で伝説となっているのは、11月20日に静岡県草薙球場で行われた一戦だ。それまで大差で勝利していた全米選抜が、沢村栄治選手の前に沈黙し、ルー・ゲーリッグ選手の本塁打による1点に終わり1-0と辛勝となった。
この試合で沢村選手は8回1失点、9奪三振と快投をみせている。ベーブ・ルース選手も沢村選手に三振を喫するなど、その投球に舌を巻いていた。
後日この偉業があったことで、沢村選手とベーブ・ルース選手の対峙する銅像が建立されており、多くの野球ファンが訪れている。