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日本人初の9秒台を達成した桐生10秒01からの4年を振り返る(2)

2017 9/21 11:09きょういち
陸上競技
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出典 NADA GIRL / Shutterstock.com


日本人初の9秒台を達成した桐生10秒01からの4年を振り返る(1)

 高校2年で10秒19という、17歳以下の世界最高を出した桐生祥秀は、翌年の戦い方を考えなければならなかった。

 世界陸上の直前にあるインターハイを走るなら、100メートル、200メートル、400メートルリレーを走ることになり、かなりの疲労がたまることになるからだ。

 インターハイはそこに出場するまでの道程が長い。京都府予選があり、近畿予選があり、その二つを勝ち抜いて、ようやくインターハイの舞台に立つ。中学や大学の全国大会は参加標準記録を突破すれば出場できるが、高校は違う。都道府県予選、地区予選で上位に入らなければならないから、精神的な疲労もたまる。インターハイに出るということは、周りが思う以上に疲れとの戦いになる。

 世界陸上でベストを尽くすなら、インターハイは回避すべきかもしれない。一方で、日の丸をつける栄誉を捨て、インターハイにかけるという選択肢もある。

 高校2年生の時の桐生はこう語っていた。

 「どちらの路線を目指すのか、監督話し合って決めたいと思います」

 でも、柴田監督の心は決まっていた。

 「高校生が、インターハイに出ないという選択肢はない」

 桐生も同じだった。まだ、経験したことのない全国優勝への憧れがあった。

ケガに泣いた中学生時代

 小学生の時、桐生はサッカーをやっていた。当時から足は速かったが、GK不在のため、GKをやることになった。そして、彦根市選抜にも選ばれることになる。

 「もとのGKがやめたために交代でやっていたら僕になった」と桐生は振り返る。

 陸上への憧れはあった。四つ上の兄が陸上をしていた。だから、サッカーチームの卒団式で宣言した。

 「中学では陸上をする」

 滋賀・彦根南中で陸上を始めたが、全国優勝とは縁がなかった。要因の一つはケガだった。中2の時は腰痛に苦しみ、走れない時期が続いた。

 中3の時は、全国大会の200メートルで2位。同学年に中学記録を出すライバルがいた。「絶対に勝てないと思った」と桐生。100メートルでも優勝を狙っていたが、その前にあった400メートルリレーで足が肉離れになった。

 その時の経験から、今でもレース直前に聴く曲がある。フォークデュオ・ゆずの「栄光の架橋」。好きな歌詞は「いくつもの日々を越えてたどり着いた今がある」という部分だ。

 「ケガがあったから今がある。頑張れば、はい上がれる」。そんな自身の気持ちと重なるのだという。

 中学の卒業文集に「めざせ全国制覇」と書いた。でも、洛南高に進学しても、全国制覇という言葉をつかめずにいた。高校2年の夏に腰と足を痛め、歩くのもままならない時期もあった。

 桐生にとっても、高校生としての全国優勝を狙う最後のチャンスとなるインターハイを走らないという選択肢はなかった。

 とはいえ、世界陸上に選ばれれば、それを辞退するという選択肢もあり得ない。だから、桐生は洛南高のチームドクターに体の状態をこまめにチェックしてもらった。ケガのリスクは避けなければならなかった。

 でも、この悩みは10秒01を出す半年前。どこまで速くなるかは、誰にも検討がつかなかった。

 桐生本人も高校3年生での目標についてこう語っていた。

 「来季の目標は10秒1台前半を出すことです」

 謙虚だと思ったが、それも当然。10秒19で走ること自体、驚きの記録だったのだから。

 だが、ご存じのように、彼は一気にスターダムへの階段を上がり始める。

 2013年4月、広島で行われた織田記念陸上で日本歴代2位の10秒01をマークする。

 無名の丸刈りの少年が一気に、世の中の注目を浴びるようになった。

(続く)