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時代を作った名伯楽!箱根駅伝の名物監督

2016 10/4 00:52
駅伝
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Photo by Sebastian Duda/ Shutterstock.com

箱根駅伝には優秀な選手だけではなく、選手の才能を見抜き開花させてきた監督が大勢いる。
今回は、箱根駅伝で話題となった名物監督たちを紹介する。

駒沢大の名物監督、熱血漢の大八木弘明氏

1990年代後期にさしかかると、駒沢大が急成長を遂げて長期にわたる黄金期を築いている。その成長を支えるのが、大八木弘明監督だ。自身も中長距離の選手として箱根駅伝で2度の区間賞に輝いた。コーチに就任した95年以降、総合4連覇を含む7回の優勝を果たしている。
選手に食事を作らせるなど徹底した生活管理とともに、走り込みの際には軽トラックで後ろから怒鳴って追いかけるなど、熱血的な指導でも有名だ。本番では大八木監督が乗った監督車から怒鳴り声が聞こえた途端、不調だった選手が「反射的」に加速するほどだ。

独自の精神主義と徹底したデータ収集、早稲田大名物監督の中村清氏

近年の早稲田大の監督といえば、箱根歴代最強のランナーと名高い渡辺康幸氏を思い浮かべるかもしれないが、瀬古利彦氏を育てた早稲田の名伯楽といえば中村清氏だろう。その指導法は、仏教やキリスト教の講話を屋外で選手に聞かせるといった独自の精神主義がクローズアップされがちだが、ライバルに関するデータ収集は欠かさず、「勝てるレース」を徹底した。
中村氏の遺した名言として「マラソンは芸術」、素質の無い選手に対して「真鍮は真鍮」と語っている。

留学生ランナーを初導入、山梨学院大の名物監督、上田誠仁氏

1980年代、箱根駅伝に彗星のごとく現れた山梨学院大を出場6回目にして初優勝させた監督といえば上田誠仁氏だ。箱根駅伝では見どころの一つとしてすっかりおなじみとなった留学生ランナーを導入したのも、上田監督のアイデアだった。ケニア人留学生ランナーの登場によって日本人選手の競争意識も芽生えてチーム力が強化されたが、一方で反則的な強さを誇る留学生に批判もあった。
しかし、上田監督は留学生を日本の環境に慣れさせることや、練習意識を植え付けなければ留学生でも強くならないと、教育による成果であることを強調している。

会社員から転身、常勝チームを育てた青山学院大名物監督の原晋氏

箱根駅伝において無名に等しかった青山学院大を2015年に初優勝させたのは、原晋氏だ。かつて中国電力で営業マンだった異色の経験を持つ原氏は、04年に36歳で同大陸上競技部監督に就任した。最初は無名からのスタートは厳しいものがあり、名のある選手を獲得できずに最初は苦しむ。
しかし、出身である駅伝の名門、広島の世羅高校や出身大学(中京大)の系列校である中京大中京とパイプを築けたことから状況は好転。09年にはチームを33年ぶりに箱根に出場させ、12年には出雲駅伝初優勝。15年に悲願の箱根初制覇を果たし、16年現在は2連覇中だ。

32歳で監督に就任し箱根駅伝初優勝、東洋大OBの酒井俊幸監督

東洋大学を率いるのは2009年に32歳で陸上競技部の長距離部門監督になった酒井俊幸氏だ。同校のOBとして箱根駅伝を3度走った経験を持つ酒井監督だが、卒業後は実業団のコニカミノルタで活躍し、母校の福島・石川高校で教諭をしながら陸上部の監督をしていた。
教諭時代に当時は無名だった「山の神」柏原竜二選手を見出して東洋大に送り出すなど、就任前から同校の躍進に一役買っていた。就任1年目からいきなり優勝を飾り、翌年も連覇。16年までに計4回優勝し、常にトップ3の成績を維持し続ける名門チームへと成長させた。

まとめ

駅伝における監督のスカウティングや指導力は、チームを劇的に改善させる効果がある。強者ぞろいの箱根駅伝で、それぞれの監督はどのような戦略を練ってくるのか注目が集まる。