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チーム一丸で勝負する中央学院大学の歴史を調べてみた

2016 10/4 00:52
駅伝
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Photo by Maridav/Shutterstock.com

箱根駅伝に17回の出場と7回のシード権を獲得している中央学院大学の駅伝部の強さの秘訣をご存知だろうか。
本記事では箱根駅伝に初出場を果たすまで、そして近年の中央学院大学の歴史を振り返っていく。

中央学院大学 箱根駅伝出場の記録

1966年に中央学院大学が創設されてから、28年後の1994年、第70回箱根駅伝に初めて出場した時の記録は、総合で16位、タイムは11時間38分35秒だった。それから22年後の2016年、第92回箱根駅伝まで毎年出場を果たし、最高順位は2008年、第84回大会の総合第3位、記録は11時間11分05秒だった。毎年10位入賞までに与えられる、翌年出場のシード権は7回獲得している。
2日間かけて行われる往路、復路の走者10人とそれを支える監督を始めとした仲間たちは、たくさんの練習を重ねて毎年の出場を勝ち取っている。

箱根駅伝出場までの立役者

1985年に中央学院大学の助教授となり、駅伝部のコーチとなった川崎 勇二監督は92年に監督に就任してから、わずか2年の94年に箱根駅伝初出場に導いた。川崎 勇二監督は箱根駅伝出場に特化した練習ではなく、まず初めに正しいフォームを身に着けるという練習を徹底させた。これは大学を卒業した後も実業団で通用する実力をつけ、活躍してほしいという思いがあったそうだ。
順天堂大学時代に箱根駅伝を経験した元選手としての指導は結果として毎年出場を実現し、川崎監督の指導力を確固たるものにした。初めから優れている選手などいないので、じっくりと一人一人に向き合い、その選手にあったプログラムを組んで力をつけて行くことが、選手からの信頼とチームワークの良さにつながり、強さにつながっているのだ。

中央学院大学 箱根駅伝のダブルエース

監督が見出した原石は、磨きをかけて今チームのエースとなり光り輝いている。その一人が潰滝 大記選手だ。大学で駅伝に出会った彼は、川崎監督の指導の下、家族やチームメイトの支えでキツい練習に耐え力をつけた。そしてもう一人、ダブルエースとして輝いているのが塩谷 桂大選手だ。
監督によれば実力がある分、プライドも持ち合わせる彼の指導は大変だと笑い話のように言うが、突き出た能力を自分のものにできれば怖いものなしだと言う。エースの自覚を持ってチームを引っ張るために、区間賞を狙う彼はとても頼もしい存在だ。そんな2人のエースの走りに期待が高まる。

箱根駅伝に伝わる 中央学院大学 の「お守り」

箱根駅伝で選手達が身につけるものに、紹介したい素敵なものがある。一つ目は皆でつなぐ「たすき」だが、裏側にチーム全員の名前が直筆で書いてあるそうだ。駅伝は一区間を一人で走らなければばならないが、気持ちはチーム皆で一緒に走っているという想いがこめられている
また、当日身に着ける白い手袋にも、一言のメッセージが直筆で書いてあるが、これは監督からひとりひとりへのメッセージで、選手がお守りとして監督に書いてもらうのだそうだ。ちなみに「たすき」は当日、前の走者から受け取ってから、しっかり大学名を前に、上下逆にならないようにかけて、慌てず冷静になって走れるように練習もするのだそうだ。何ともチームの絆を感じるエピソードだ。

中央学院大学 駅伝 「影の立役者」

往路、復路と10区間を10人で走る箱根駅伝だが、出場に至るまで頑張って来たのは、実際に走る選手ばかりでなく、代表になれなかった選手達、監督、コーチ、そしてマネージャーの存在がある。普段の練習のサポートから、データを集めたり、選手ひとりひとりの体調や様子も気にかけて、常に万全の態勢で選手が走れるように神経を使い、走り終えた後も必要なものを持って迎えたりと、表には出ないがチームには欠かせない存在なのだ。
華やかな大会の陰には、選手ひとりひとりの努力もさることながら、それを支えて応援する存在があることを忘れずに箱根駅伝を見ると、また違った物語も見られるかもしれない。

まとめ

今では箱根駅伝はお正月の風物詩として、欠かせないものとなった。今度はどんな戦いを繰り広げてくれるのか、1年間の選手達の想いをかみしめながら、応援したいと思う。