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留学生ランナーの先駆け!山梨学院大学駅伝の歴史と伝統

2016 10/4 00:52
駅伝
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Photo by Galina Barskaya/Shutterstock.com

箱根駅伝を3度制覇、出雲駅伝を5連覇した山梨学院大学はどのようにして全国屈指の名門の仲間入りを果たしたのだろうか。 本記事ではその歴史や近年のチーム状況について説明していく。

初出場時は最下位だった箱根駅伝

山梨学院大学の駅伝における歴史は他校に比べるとやや新しく、創部は1977年。大学から強化育成クラブとして指定されたのは1985年のことで、第63回大会(1987年)に箱根駅伝に初出場した。
その時の成績は総合で最下位(15位)。1区は筑波大学よりも早い14位だったが、その後はずっと15位を走り続けてトップと32分近い差をつけられた。初出場時のメンバーは1、2年がメーンで、まだ伸び盛りの最中ということもあり、翌年に2回目の出場を果たした際は総合11位まで順位を上げることができた。

躍進へと導いた留学生ランナーの存在

奇しくも箱根駅伝のテレビ中継が開始されたのは1987年であり、ちょうど山梨学院大が初出場を果たしたタイミングと同じだった。そこから2016年まで30年連続出場している実績を支え、躍進へと導いたのは「留学生ランナー」の存在が大きいといえる。マラソンに対して無類の強さを発揮するケニア人留学生のイメージを植え付けたのも同大が初めてのことだった。出場3年目となった89年、初めて登場した留学生ランナーはジョセフ・オツオリ選手で「花の2区」と言われるエース区間で7人抜きをして鮮烈なデビューを飾った。

留学生ランナーを育て続ける伝統

留学生ランナーを初起用した89年は7位、90年は4位と回を重ねるたびに山梨学院大は躍進を続けた。留学生の起用に対して世間は「反則」と批判する声もあった。
しかし、駅伝部を指揮する上田誠仁監督は、留学生の食生活や語学、練習環境に慣れされることの大変さを説いた上で、日本人と比べて生活がルーズだった留学生に「一番長くグラウンドにいないと強くなれない」と、猛練習を課した。その結果が大舞台で身を結んで以来、留学生ランナーはその教えを守り続けて伝統となっている。

箱根駅伝の初制覇は出場6年目の1992年

箱根駅伝の初出場から6年目となった1992年、ついに山梨学院大は箱根駅伝での栄冠を手にする。出場6年目での記録達成は、専修大学とタイ記録となっている。この時期同大の黄金期が始まり、箱根駅伝は94、95年と制覇して出雲駅伝では91年から5連覇。早稲田大、神奈川大と覇権を争う常勝チームに成長した。
しかし、96年に当時エースに君臨していた中村祐二選手がレース途中で足を痛めて途中棄権。ここからは優勝とは縁がなく、シード権さえ届かない年も多くあった。数年に一度のペースで2、3位に入る時期もあるのだが、継続して上位に食い込むことが難しくなっている。

甲府の街も山梨学院大学を応援

山梨学院大の練習環境は陸上競技場だけではない。創部当初は学内に練習場がなかったことから、上田監督は甲府市の自然環境を生かしたクロスカントリーコースを考案し、この練習方法は他校の先駆けとなった。地元の街は同大陸上部に協力的で、銭湯の無料券の配布や、県国際交流協会員が留学生と食事しながら日本の文化を教える機会を作ったりしている。
街とともに優勝を目指すスタイルが箱根駅伝30年連続出場の山梨学院大の強さを支えているのだ。

まとめ

留学生ランナー起用の先駆けとして有名な山梨学院大だが、留学生を育てる苦労もあり、それを支える街の温かさも感じられるチームだということがわかる。箱根駅伝で再び優勝できる日を目指して頑張るチームに今後も目が離せない。