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今をときめく青山学院大学の駅伝の歴史と伝統

2016 10/4 00:52
駅伝
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Photo by Ekapong/Shutterstock.com

15年から箱根駅伝を2連覇するほどの実力校となった青山学院大だが、どのようにして急成長を遂げたのだろうか。
今回はその秘密に迫っていく。

青山学院大の箱根駅伝初出場は1965年

神奈川県相模原市に練習拠点を置く青山学院大陸上競技部は、1918年に創部された。近年こそ上位常連校として有名だが、初出場は予選会を3位で勝ち上がったものの本戦は14位に終わる。
その後連続出場は52回大会(76年)まで続き、44、45回大会では7、9位に入りシード権を獲得した。しかし52回大会では復路で途中棄権して以降、長きに渡って箱根への道は閉ざされてしまった。

青山学院大学陸上部最大の転機

固く閉ざされた箱根の門をこじ開けることができたのは、2008年に行われた85回大会のことだ。04年に就任した原晋氏が陸上競技部監督に就任したことが最大の転機だった。
自身もかつて大学まで長距離選手として活躍したが、実業団創設のタイミングで入社した中国電力では、故障に悩まされ5年で選手を引退。
同社で営業成績が優秀なサラリーマンとして活躍するも、陸上とは縁遠い生活を送っていた。そんなところに母校である広島の世羅高関係者から監督就任の話を打診された。

青山学院大学にやってきた「伝説の営業マン」

元陸上選手とはいえ、箱根駅伝の出場経験もない当時36歳の「伝説の営業マン」は、青山学院大で何をしたのだろうか。当時は有力選手に獲得オファーを出しても、学生3大駅伝から長く遠ざかっていた同校への対応はつれないものだった。
しかし、原監督の母校である世羅高や中京大の関連校、中京大中京高とのパイプを利用し少しずつ優秀な選手を集めたのだ。33年ぶりの出場となった85回大会は最下位に沈んだが、翌年はいきなり8位へと躍進。ここから連続でシード権を獲得し、箱根駅伝の出場を機に母校以外からも全国から有望な選手が集まり始めた。

練習に遊び心や現代的要素を取り入れた青山学院大学

青山学院大の快進撃を支えたのも原監督のレーニングの賜物と言っても過言ではない。箱根駅伝への出場経験がないからこそ「固定観念がない指導方法」を実践した。
「自立」をテーマに、半歩先の積み重ねを大事にしたベースアップを選手に課し、「42.195キロ走」やカリスマトレーナーの指導を受けるなど、遊び心や現代的な要素を練習に取り入れることで選手の成長を支えていったのだ。

「駅伝への素人感覚」が伝統を覆した

原監督は選手の勧誘基準に「青学の雰囲気に合う」という条件を設定している。体つきが良い上に「明朗快活」であること。他大学と比べて「チャラい」という印象も取られかねないが、重苦しい雰囲気のない「楽しさ」が原監督を中心に作られた。
1990年代後半から長く黄金期を築いてきた駒沢大や、2000年代後半から急伸した東洋大を抑えて青山学院大が大学駅伝3強に加わることができたのは、原監督の営業力や人柄、そして「駅伝への素人感覚」がなせる技だったのだ。

まとめ

原監督によるチーム作りによって青山学院大は劇的な変化を遂げた。箱根に新風を吹かせたチームは今後、箱根駅伝の連覇記録をどこまで伸ばせるのだろうか。これからの活躍に注目だ。